安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました」(頂いた質問)

阿弥陀如来の救いを求めて一生懸命念仏を称えたり、聴聞したりしましたが、どうにもならないので、段々やる気が無くなってしまいました。
インターネットで見つけた冗談で、キリスト教徒の人が、「絶対、神は猫だ」と言っているのを見たことがあります。理由は「いつも祈りは無視されるから」だそうです。
私も似たような気分で、念仏を称えるのがしんどいのであまり称えません。
助からない理由は、
(1)阿弥陀仏があまり親切ではない。
(2)阿弥陀仏がいない。
(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。
のどれかだと思います。
(頂いた質問)

これについては

(1)阿弥陀仏があまり親切ではない

というのはありません。私を救うために五劫思惟されたのですから、「意地悪」や「トラップ」または「試練を与える」ということはありません。また、この五劫思惟は、私に負担をかけないようにされたものです。形はどうあれなにかの「行」を要求する場合、全ての人を救うことはできません。


そのことを、選択本願念仏集に以下のように書かれています。

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

http://goo.gl/BR39s

南無阿弥陀仏(念仏)で救うという阿弥陀仏の本願は「一切に通ず」ものです。しかし、それ以外の「行」を救いの条件にすると「諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず」となります。あらゆる人に適応できないものとなります。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。(選択本願念仏集_浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

仏像を作ったり、塔を建てたりするのが阿弥陀仏の救いの条件であるのなら、そんなことができる金持ちはとても少なく、そこまでの経済力がない人の方がずっと多いのです。もし「造像起塔」が本願であるならば、多くの人が往生の望みを断たれてしまいます。また、智慧があり才能に恵まれた人を救う本願であるならば、そうでない者の方が多いのでそれらの人は往生の望みを断たれてしまいます。

全ての人を救う為の南無阿弥陀仏となられたので、そういう意味で阿弥陀仏は大変親切な方であす。「あまり親切ではない」ということはありません。


次に

(2)阿弥陀仏がいない。

は、ありません。なぜなら、本願がすでに成就して法蔵菩薩から阿弥陀仏となっておられるからです。その阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となって私に称えさせておられるのですから、ただ今の私が念仏をすること自体が、阿弥陀仏がおられる証拠となります。


最後に

(3)上のどちらでもないが、何かが行き違っている。

とある、これが正解です。

阿弥陀仏は私を救うための仏でありますから、「親切ではない」ということがありません。また、すでに本願は成就しているのですから「阿弥陀仏がいない」ということもありません。

では「何かが行き違っている」の「何か」について考えてみます。


その「何か」とは「阿弥陀仏は親切である」「阿弥陀仏はおられる」にもかかわらず「私はなぜ救われないのか」という疑問がについてです。


この「阿弥陀仏が親切である」については、質問者の方が全面的に信用されていないのではないかと思います。必ず救うと呼びかけられる南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われて下さい。