安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:「現在助かっていないということは、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞けていないことだと思います」について

現在助かっていないということは、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞けていないことだと思います。(頂いた質問より抜粋)

現在助かっていない原因を考えようとすると、どうしても「現在より前」に考えが行ってしまいます。別の言い方をすると、「なぜ聞けなかったのか」と考えてしまいます。

野球のバッターに例えると、こう言っているようなものです。
バッター:「現在出塁していないということは、ピッチャーの投げたボールをヒットにすることができなかったということだ思います。」
大事なことは、直前のボールをヒットに出来なかった理由ではなくて、現在投げられたボールに向かうことです。また、出塁していないということはヒットが出ていないというのは当たり前のことです。そういう意味では考えるまでもないことを考えているのが、このバッターです。

また、この場面で「なぜ打てないんだ」と思っている人は、当事者であるバッター以外にもいます。それは、それを観戦している観客です。特に熱心なファンなら、バッターのつもりになって、必死に打てない理由を探します。また、そういうファンほど「あのボールは手を出すべきではなかった」とか「追い込まれているんだからあそこではバットを振るべきだ」などなど、やけに詳しい分析をしたりします。しかし、そのようにあれこれと言っても、結局評論・批評とはなりますが、悩みにならないのは当事者ではないからです。ファンとしての、観客としての悩みはありますが、それは当事者の悩みとは違います。

野球観戦ならば、観客がバッターボックスに立つことはありません。しかし、仏法は違います。一人ひとりが、阿弥陀仏の本願と対峙し、バッターボックスに立たねばなりません。
立ったならば、過去のことは忘れて目の前の阿弥陀仏と向き合って本願を聞く一つです。なぜ今まで聞けなかったのかをどれだけ分析、反省してもそれは過ぎたことです。バッターが、2球前、3球前のことをいつまで考えても、現在のボールとは関係がないのと同じです。

これは喩えですからいろいろと合わない所があります。一つ例をあげると、野球の場合はバットを振らなくても最低3球まではバッターボックスに立っていることは出来ます。それに対して、阿弥陀仏の本願は、生きているただ今だけのことです。この次はありません。1球目はまずは様子見というような気持ちはすてて、ただ今阿弥陀仏に向いて本願を聞いてください。