安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

蓮如上人が「無関心な人に争ってまで、自分は正しいと主張されなかった」根拠について(根拠は?さんのコメントより)

根拠は?さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ここで「無宿善の機にいたりてちからおよばず」といわれたのは、「どうにも聞く気が起きない者、関心をもたない人」に対して、争ってまで「自分は正しい」と主張されなかった蓮如上人の布教精神からいわれたものです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110802/1312275511

根拠は?(根拠は?さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110802/1312275511#c1312370262

蓮如上人が「無関心な人に争ってまで、自分は正しいと主張されなかった」布教精神についての根拠はどこにあるのかというお尋ねだと理解して、エントリーを書きます。
そのような根拠として、蓮如上人は以下の御文章に書かれています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。(御文章3帖目12通・宿善有無・浄土真宗聖典(註釈版)P1158)

これは、蓮如上人がご門徒に勧化する場合であっても、「無宿善の機」(仏法に無関心な人)には、「かへりて誹謗のもと」になると言われ、また「宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり」と言われています。
言い換えれば、「まったく聞く気持ちのない人にまで、教えを押しつけるようなことは真宗ではない」ということだと思います。

同様の御文章としては、以下のものがあります。

一 諸国参詣の輩のなかにおいて、在所をきらはず、いかなる大道・大路、また関屋・渡の船中にても、さらにそのはばかりなく仏法方の次第を顕露に人にかたること、しかるべからざる事。(御文章4帖目8通・八箇条・浄土真宗聖典(註釈版)P1177

いろいろな場所から本願寺に参詣する人が、その道中に人に仏法を語ることを禁じられたものです。もちろんこれは、当時の不安な世情に配慮されたものですが、基本精神は無関心な人にまで押しつけるなということです。


また、蓮如上人が争いを好まれなかったことは、加賀の一向一揆に反対された蓮如上人の意向に反し、一向一揆を主導した弟子の蓮祐を文明7年に破門されている*1ことからも伺えます。

聞く気があってこそなのだということは、御一代記聞書にもあります。

一 時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到来とはいふべし。無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ。(御一代記聞書105・浄土真宗聖典(註釈版)P1265

ここで時節到来とは、いわゆる信楽開発の時節到来のことであり、真実信心獲得したことと同じ意味でつかわれています。それは、「用心をもしてそのうへに事の出でき候ふ」ことなのだといわれています。例えば、まったく仏法を聞こうという気持ちもない人、蓮如上人の当時で言えば神信心に熱心な人や、仏法にまったく無関心な人には「時節到来」ということは言わないのだと言われています。
「聴聞をこころがけてのうへの宿善・無宿善といふことなり」と言われていますように、少なくとも仏法を聞こうと法話に来るような人の上で、さらに宿善、無宿善ということを問題にされています。

長年寺にはきているけれども、そのなかで本当に聞こうという人と、単に義理で参っている人を分けておられます。これも、寺には来ているけれども本当は仏法や往生浄土に関心がない人に押しつけようとされなかった蓮如上人の布教精神があらわれていると思います。

*1:Wikipediaより http://goo.gl/1tlfJ