安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

なぜわが心でおしかためていると信が続いていても不相続心になってしまうのでしょうか?(頂いた質問)

なぜわが心でおしかためていると信が続いていても不相続心になってしまうのでしょうか?(頂いた質問)

自分の心で維持しようと心がけなければならない信心は、自力の信心だからです。その自分の心も変わるので、自力の信心は相続しません。

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二者信心一ならず 決定なきゆゑなれば
 三者信心相続せず 余念間故とのべたまふ(高僧和讃)

信心が相続しないのは、「まじへるがゆゑに信なしといふなり」(左訓)と言われています。何がまじるかといえば、疑いがまじるということです。

自力の信心は、自分の心で組み立てたものですから、そのものがらは自分自身の心です。自分自身の心の中で、「こう思えた」「こういうことをした」「こんな体験をした」などということを材料にできあがった信心です。

例えば、「喜べた」を信心のものがらと思った人は、その「喜び」がなくなるのではないかという不安を抱えることになります。また、「喜び」が無いときに不安になります。また、出てくると安心したりします。

そのように「自分の中の基準」をもって信心とするので、なんとか維持しようと守りに入り、内にこもった信心となってしまいます。仮に死ぬまでその信心を維持することができたとしても、生きている間の自分の名利を満たしただけで、浄土往生はできません。

他力の信心は、自分でつくりあげるものではありません。他力の信心のものがらは、南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏には、私の考えも、疑いも一切まじっていませんので、つねに相続します。自分の手は必要ないので、自分で守る必要もない信心です。阿弥陀仏が常に守って下さいますから、安心です。

「理屈はわかるけれども、信心がわかりません」という人は、自分の理解を土台にして信心をはかろうとしています。信心は分かろうとしたら、分かるものではありません。信心は阿弥陀如来より聞くものであり、有り難いものです。