「蜂殺しの念仏」とは、御一代記聞書に出てくる表現です。
一 ある人いはく、前々住上人(蓮如)の御時、南殿とやらんにて、人、蜂を殺し候ふに、思ひよらず*1念仏申され候ふ。その時なにと思うて念仏をば申したると仰せられ候へば、ただかはいや*2と存ずるばかりにて申し候ふと申されければ、仰せられ候ふは、信のうへはなにともあれ、念仏申すは報謝の義と存ずべし。みな仏恩になると仰せられ候ふ。(御一代記聞書180・浄土真宗聖典(註釈版)P1287)
ある人が、蜂を殺したときに思わず「南無阿弥陀仏」と念仏を称えました。
その時蓮如上人が「どういう気持ちで念仏を称えたのだ」と尋ねられました。
それに対して蜂を殺した人は「ただかわいそうなことだと思って念仏を称えました」と答えました。
それに対して蓮如上人は「信心決定の上は、どういう気持ちであっても念仏を称えることは報謝である。すべて仏恩報謝になる」と言われました。という文章です。
どのような気持ちで念仏を称えても報謝になるといわれたのは、念仏そのものに私を助けるはたらきがあり、私が何を思うかと言うことは関係ないと言われているのです。
信心決定の上で称える念仏は、救われるためになにかをしようと加える気持ちはありませんから、すべて報謝になるといわれています。私の称え心でなにかが変わるような南無阿弥陀仏ではありません。
蜂を殺したときにふと称える念仏は、何も考えずに思わず称えてしまうことだと思います。しかし、そのようなふと称える念仏も、すべて阿弥陀仏によって称えさせられているところの南無阿弥陀仏です。その称えられている南無阿弥陀仏そのものに私を救う働きがあります。