安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑い無いとはどういうことでしょうか?(ちまきさんのコメントより)

ちまきさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

“本願を聞いて疑い無い”のが信心で、三業では判断できないということですが、
“本願を聞いて疑い無い”ということを、あえて意業で言い換えると、
(今私の口から出て下さるお念仏は、阿弥陀様が十劫の昔から私を「助けさせてくれよ!」と、
お呼び続けておられた御声だったのですね・・・。)−と聞いていることなのですね?
もちろん、こう思えるようになったら信心決定したことになると思って私は書いているのではありません。
“疑い無い“という言葉だけではよくわからないので、しつこいようですがもう少し教えて頂きたいのです(ちまきさんのコメント)。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110504/1304463878

「『疑い無い』という言葉では、よくわからない」といわれるちまきさんのお気持ちもよく分かります。
念仏について、あれこれ思うというよりは、何にもありません。思うことも言うこともいらないのが疑いないということです。「何も思わないように聞こう」とも、「こういうおよび声なんだと聞こう」と思わないのが、疑いなく聞くということです。
なぜなら、こういう呼び声なんだと私が思うより先に、「直ちに来たれ」と呼びかけて下さるのが南無阿弥陀仏だからです。
それに対して、疑いなく聞いているのが信心です。

今回は、御文章5帖目7通を引用します。

これによりて、なにとこころをももち、またなにと阿弥陀ほとけをたのみまゐらせてほとけに成るべきぞなれば、なにのやうもいらず、ただふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまゐらせて、後生たすけたまへとおもふこころひとつにて、やすくほとけに成るべきなり。このこころの露ちりほども疑なければ、かならずかならず極楽へまゐりて、うつくしきほとけとは成るべきなり。(御文章5帖目7通)

「このこころの露ちりほども疑なければ」極楽へ参ることができるといわれています。
「このこころ」とは、「なにのやうもいらず、ただふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまゐらせて、後生たすけたまへとおもふこころ」のことです。

こちらが付け足すものや、こういうものだろうと予想するものもいりません。ただ本願力によって私に差し向けて下さる阿弥陀仏の仰せに従うことです。阿弥陀仏にまかせたという心が、信心です。
「○○だったのですね・・・。」というのは、聞いた上で何かを思ったことなので、信心決定の上では味わいといわれるもので、信心そのものとはまた異なります。

しつこいようですがとありますが、大事なことですからいくらでもお尋ね下さい。