安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀様のご苦労はすべて私一人の為だったのですね。」と本願を聞いているのが一味のところに出た人なのですね?(ちまきさんのコメント)

ちまきさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私が獲信者と言ったのは親鸞聖人のことです。
親鸞聖人が「弥陀の五劫思唯の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」と言われたように、
「阿弥陀様のご苦労はすべて私一人の為だったのですね。」と本願を聞いているのが一味のところに出た人なのですね?(ちまきさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110503/1304378144#c1304429523

「阿弥陀仏のご苦労はすべて私一人の為だったのです」と本願を聞いている人の中には、実際に阿弥陀仏に救われている方もあると思います。ただ、第三者のことですから「こういう発言をしていた」ということをもって判別することはできません。

本願を聞いて疑い晴れたといっても、それを弥陀五劫思惟の「ご苦労」という人もあります。「南無阿弥陀仏とただ聞いているだけです」と言う人もあります。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末*1を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P251

仏願の生起本末とは、阿弥陀仏がなぜ本願を建てられたのかということと、その結果現在私に南無阿弥陀仏と呼びかけられていることです。
過去このようなご苦労をされたということを聞いているのではなく、現在ただ今呼びかけて下さるなかに五劫思惟の願も行もあるということです。

「本願」を「どう聞いている」かではなく、聞いて疑い無いのが信心です。

*1:仏願の生起本末・・仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあること。