前日のエントリーの追記です。
正法の時機や、像法の時機には修行をして、さとりを開く人もあったでしょうが、末法の五濁悪世の衆生には選択本願を信ずる以外にないというのが、七高僧共通の教えです。(前日のエントリーより)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110412/1302555108
正法の時機、像法の時機に生まれたすべて人の中には、修行ができる人もありました。
仮に、この私が正法の時機、像法の時機に生まれていたとしても、親鸞聖人は修行をすることを勧められていません。
(15)
正法の時機とおもへども 底下の凡愚*1となれる身は
清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P603)・法蔵館の真宗聖典P250.中段)
仮に正法の時機に生まれたと考えても、凡夫には清浄真実の心もないので、自力の菩提心を起こすことも出来ない。だから、南無阿弥陀仏に救われなさいと教えられています。
(29)
像法のときの智人*2も 自力の諸教をさしおきて
時機相応の法*3なれば 念仏門にぞいりたまふ(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P605・法蔵館の真宗聖典P252上段)
「像法のときの智人」とは、龍樹菩薩や天神菩薩のような修行もし、ある程度悟りを開くことができるような方のことです。そんな方でも自力の教えは捨てられて、念仏門に入っていかれた。だから、末法の私はなおさら南無阿弥陀仏によって救われなさいと勧めておられます。
仮に正法や像法の時機に生まれて仏法を聞くご縁に恵まれたとしても、凡夫の私に親鸞聖人は選択本願一つを勧められています。
正像末和讃には、この後に誡疑讃を書かれ、本願を疑う疑いを戒められています。第18願でそのまま救うと使われているのだから、疑いは捨ててて直ちに救われなさいと勧められています。