阿弥陀仏に救われるかどうかに、自分の思いは関係ないとも聞きますが、信心の沙汰が大事とも聞きます。この二つは相反するような気がします。(頂いた質問)
結論から言いますと、阿弥陀仏の本願を聞く一つという意味では、自分の思いは関係ありませんが、自分の思い一つで決めてしまう思い込みは大いに信心の沙汰をしないとなかなか正されないからです。
仰るとおり、私が何を思うかということと信心は関係ありません。
しかし、信心の沙汰をせよ、心を打ち出せと蓮如上人はいわれています。
その信心の沙汰とは何を沙汰するところなのかといいますと、信心を取りたるか取らざるかの沙汰です。
聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。(御一代記聞書35)
いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今以後においては、不信の面々はあひたがひに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり。(御文章4帖目12通)
信心の有無の沙汰をせよと言われても、もちろん信心の判定をする場が信心の沙汰ではありません。
しかし、このように勧められるのも、自分で信か不信かを判断するということがよくあるからです。「だいたいこれでよいだろう」と思う人は、自らの心の様子をもって、信心かどうかを判断します。そういう人に対しては、信心の溝さらえをせよ、信心の沙汰をせよといわれています。
「いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべき」といわれるのも、自分の中で「これでよし」と思ってはならないということです。
「これでよい」と信心を自分で判定するばかりではありません。「自分の心はこうだから、まだ救われないだろう。しばらく先のことだろう」と、救われることを自分の心を物差しに、ただ今の救いをずいぶん先に設定してしまうこともあります。
自力の信心とは、閉じた信心です。自分の心と相談し、常に自分の心を物差しとして、自分の中で完結してしまっているからです。「もう救われた」にしろ「救われるのはまだ先」にしろ、自分で結論を出してしまっているので、人に打ち出していかないと訂正されることはありません。
信心の沙汰は、もちろん同座のしている人に認定してもらうということではありません。
自分の一人で、自分の心を物差しにしている間は、そこに座り込んでしまうと抜けることができません。
常に阿弥陀仏と向かいあって、自分で固く持っているものが何もないのが他力の信心です。閉じた信心ではなく、開かれた信心です。名札がないと入れないような特定の場所でなければ聞けない法ではありません。