安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会が五劫思惟の願が19願だというたった一つの理由

2011年1月23日の2000畳座談会で「19願を疑う心が疑情」と高森会長が話をした件で、詳しい情報を頂きました。
正確には、

  1. 「五劫思惟の願は19願」
  2. 「五劫思惟の願を疑うのが本願を疑う心」
  3. 「19願を疑う心が本願を疑う心。疑情」

という話でした。

最初の「五劫思惟の願は19願」という(1)が間違っているので、19願を疑う心が疑情であるという理屈は成り立ちません。
そこで、なぜ五劫思惟の願は19願なのかということについては、根拠はなく、「真実に入れるために方便がある。方便があって真実があるのではない」という話があるだけでした。

これが親鸞会が五劫思惟の願は19願というたった一つの理由です。しかし、これは明らかに間違いです。

阿弥陀如来がなぜ五劫思惟されたのかというのは、親鸞会では18願に救うためにどうしたらと五劫思惟されてできたのが19願だと理解しますがこれは違います。
どんなに素晴らしい浄土をつくられても、何かをしなければ参れない浄土では、参ることができません。どのような浄土にするかということで五劫思惟された上で、どんな人でも浄土に往生できるようにまた重ねて思惟されました。
それが唯信鈔にある以下のお言葉です。

これをえらぶこと一期の案にあらず、五劫のあひだ思惟したまへり。かくのごとく、微妙厳浄の国土をまうけんと願じて、かさねて思惟したまはく、国土をまうくることは衆生をみちびかんがためなり。
国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす。(唯信鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1340))

どんなに素晴らしい浄土でも「衆生生まれがたくは、大悲大願の意趣」と違ってしまうのです。
この衆生というのは、ただ今臨終であり、また善行らしいことをしたことがない人も当然ふくまれます。そんな人に何か条件を設定したり、まずこのような善を真剣にせよ、理由がわかってもわからなくてもせよ「主人のいうことを計らう犬がいるか」などと阿弥陀仏が思われるはずがありません。

そこで

これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。(唯信鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P1340)

南無阿弥陀仏の名号一つで救うと五劫思惟されて、まず諸仏に名号を褒め称えさせるという17願を建てられたといわれています。
「名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめす」のが、五劫思惟の阿弥陀仏の願いです。
これを阿弥陀如来の善巧方便といいます。どういう手立てによって、私を浄土に往生させるかと五劫思惟された結果は、名号一つですくうというものです。
すべての人にまず善をせよではありません。それは、阿弥陀仏の五劫思惟を否定することです。
「国土妙なりといふとも、衆生生れがたくは、大悲大願の意趣にたがひなんとす」から阿弥陀仏の御心をうががうと、まず善をせよとは絶対になりません。