安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏がいるのはどうしてわかるのですか?」(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
もし阿弥陀仏がいるならそのままで救われるんだろうし、阿弥陀仏がいなければお浄土にはいけないと思うけど、阿弥陀仏がいるのはどうしてわかるのですか?私には阿弥陀仏がいるのかいないのか分からないです。
帰命してないのははっきりしてるのですが、
自分の心は関係ないと気がついたらへんな安心感ははあるのです。私は何か安楽椅子に腰掛けてしまったのでしょうか。
阿弥陀仏とは関係なく、自分の心は関係ないとわかったら、なぜだか安心しています。うまくいえなくて、まとまらない文章になりましたが、無帰命安心!?(メンデルさんのコメント)

阿弥陀仏がおられるのはどうしてわかるのかということについては、南無阿弥陀仏が証拠です。それ以外に目で見える仏様ではありませんので、見てわかるということはありません。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。(御文章4帖目8通・浄土真宗聖典(註釈版)P1179)

現在南無阿弥陀仏と称えられるところの南無阿弥陀仏が、阿弥陀仏の本願が成就したすがたであり、私の往生が定まった証拠です。
それに自分の心は関係ないといったことは、往生の働きという点で、私が行きたいと思うからいけるのではなく、いきたくないと思うからいけないのでもなく、南無阿弥陀仏のお働き一つで往生させていただくということです。

その南無阿弥陀仏に、なにか自分の行為や思いを加えて往生しようというのが、本願を疑う心です。
「自分の心は関係ないとわかったら、なぜだか安心しています。」
といわれるのは、今まで何か不安に思われてのことだと思いますが、どういう不安を持っておられたのでしょうか?まとまらなくても結構ですので思ったままを書いていただければ幸いです。

安心したのが信心ではありませんから、安心したから大丈夫ではありません。本願を聞いて疑い無いのが信心です。
阿弥陀仏の本願を聞いて、ただ今救われてください。