前回のエントリーの続きです。
最初に書きますが、この真宗学5号の問いと答えは、問いが間違いなので、答えは何を書いても意味がないということです。
問い:信後絶対出ない心10書け→答え:○○○
この問いは、「信後には絶対でない心がある」と言っています。逆に言えば、「こんな心が出るのは絶対に信前」ということです。どちらにしろ、信前か信後かを、自分の心を物差しにしている問題です。
質問は、それは前提として、以下の部分でした。
出ないから安心とか出たから不安ということではなくて、実際出なくなる心があるかどうかお聞きしたいという意図での質問です。(maryさんのコメント)
おおざっぱに分類してみました。文章の後の( )は私が追加した文章の補足や、一言感想です。
実際に分類してみますと、「信後絶対でない心100」を全部クリアしないと親鸞会では、信心決定したとは認めてくれないようです。
簡単にまとめると、会長以外の人の話を一切聞かず、会長の話し方にも一切の感情を持たず、ものすごいハッキリした一念の体験を持ち、常に喜びがあふれ、常に懺悔し続け、骨折って聞法する人が、この教学問題で表現される信後の人のようです。
自分の三業を基準にして目安にして「よかろう」「大丈夫」などと言っている表現
以下のものは、自分の三業を基準に救われたと言ってます。それを自力の心と言います。
自力の心は無いと言いたいのであれば、出なくなるといっても間違いとはいえない部分です。
- 心配がなくなったから、よかろう。
- こんなに嬉しいもの、よかろう。
- スカッとしたもの、よかろう。
- 苦にしようと思っても、苦にならんもの。(よかろう)
- 苦がなくなったのが、信心だろう。
- 念仏がこんなに出て下されるもの、よかろう。
- 念仏がこんなに有難いもの、よかろう。
- 他人に言わずにおれぬもの、信を獲た証拠だ。
- 朝晩おつとめかかさないから、よかろう。
- 今、死ぬというても、不安がないから大丈夫。
- あの時の体験は間違いない。(だからよかろう)
- 声無き声が、確かに聞こえたもの。(よかろう)
- 生きた弥陀にあったから。(よかろう)
- 人が何言うても、オレさえよかったら、よかろう。
- なんとかなってこいと仰有るんでなし、これでよかろう。
- あの時、あれだけ泣けたもん。(大丈夫)
- あの時、あれだけ喜べたもの。(大丈夫)
- あれが三品の懺悔というのじゃろ。(だから大丈夫)
- こんなによく判るから、よかろう。
- これだけ、しゃべられるもの、よかろう。
- 前より大分変わったもの、間違いなかろう。
- あの人も言っているから、よかろう。
- こんなに尊いと思われるもの、よかろう。
- 夜のねざめにでも念仏が出るから、間違いない。
- こんなに堪忍できるのも、信をえた証拠じゃろ。
- こんなに施しができるのも、信を頂いた証拠じゃ。
- 聞くたびに初事じゃもの、間違いない。
- お聖教の通りに安心しているから、よかろう。
- 阿弥陀如来は、本当にいられるのだろうか。
- 一念の味がはっきりしているもの、大丈夫。
- 自力と他力と切り変わったもの、よかろう。
- こんなに努力せずおれぬのも、信をえた証拠じゃ。
- 懺悔の日暮ししているから、よかろう。
味わいで言うことも考えられる表現
以下は、本人の味わいとしていうことも考えられるので「信後絶対でない心」とは言えません。
- これが救いであろうか。(救われた一念にすごいすっきりハッキリするという前提で書かれた表現)
- これで助かったのだろうか。(同上)
- ハテナ、こんな心が出てもよいのだろうか。(同上)
- もう少し、何とかなれそうなものじゃが。(同上)
- ちょっとも念仏に味がない。これでも、よいのじゃろうか。(いつもものすごい感情あふれる念仏が出るとは言えない)
- こう思っていますが、どんなもんでしょう。(味わいを述べたともいえる)
- 私は、こう味わっているが、どうだろうか。(同上)
- 声なき声とは、あのことじゃろう。(同上)
- 救いとは、こんなものか。(同上)
- このままじゃったのか。(同上)
- これ位は凡夫じゃで、仕方がなかろう。(同上)
- どなた様の説教も同じじゃ。(阿弥陀仏の本願を説かれるという意味では同一)
- こんなに腹が立っても、よいのじゃろうか。(懺悔ともいえる)
- こんなに愚痴が出ても、よいのかナ。(懺悔ともいえる)
- 正定聚になったら、もう少し変わりそうなもんじゃが。(懺悔ともいえる)
- ハイの返事も向こうから、有難い。(教義的には問題なし)
- 私が間違うても、弥陀が間違わぬで大丈夫。(間違わさぬのお慈悲とは、ほんに今まで知らなんだ)
- 他力じゃから、骨折ることは、いらんじゃろ。(骨折りの定義が不明)
- ちょっとも有難くないような気がするが、これでもよいのだろうか。
- こんな程度の喜びでよいのかナアー。(懺悔ともいえる)
- 命がけで求める必要がないのに。(他力全託という意味では間違いではない)
- 何時とはなしに喜びました。(味わいとも言える)
- そんなにハッキリするものではない。(一念覚知に対する批判とも言える)
- アア今迄、何をクヨクヨしていたのじゃろうか。このままでよかったのでは、ないか。
- この機をみる必要がない、弥陀がご存知じゃから。
- 素直に聞けばよいのに、お前ら何しとる。
好き嫌いでいうこともある表現
ただの好き嫌いや、感情からでた言葉なので、信前でも信後でもいうことは考えられます。
- あれは少しオーバーないい方じゃ。
- あの人の前では、おそろしくてものが言えない。
- また、あの話か!(また19願の話か!)
自力の心かどうかを判別できない表現
以下は、文字上ではどうとでもとれるので、出るとも出ないとも言えない表現です。
- 疑いがなくなったから大丈夫。
- 自力がすたったから大丈夫。
- 誰が何言うても、ワシの信心は金剛じゃ。(信心が石のような固いものと思っているのは間違い)
- ひょっとしたら間違っているんじゃなかろうか。
- なんとのう気済みがせんが・・・。(スッキリしたかどうかを問題にしている)
- ああはおっしゃれど・・・。
- これが疑いでは、なかろうか。
- 一心に弥陀をタノンだもの、安心じゃ。
- そのままこいと仰有るもの。疑うなんて勿体ない。
- 私のは、ひょっとしたら、アカンのじゃなかろうか。
- 一念なんか我々凡夫に判るもんではない。
- 凡夫に助かったなどどいうことはない。
- 助かったなどというのは、邪見憍慢も甚しい。
- 不可称不可思議とは、こんなことか。
- あの人は邪見、憍慢だから、信心が頂けんのだ。(頭が高いといいたくて言っているとも考えられるので、判断できない)
- 聞いてばかりいても、アカン。(これだけでは何が言いたいのかよくわからない)
救われたらこうなるはずという前提での表現。
信心=感情としている表現なので、除外
- 何故、今までのように喜びが続かんのだろうか。(24時間喜び続けるはず)
- もう、これで聞く必要はない。(すごい聞法心がおきるはず)
- もう、これで聞きたくなくなった。(同上)
教義的に問題のある表現
自力の心の有無とは問題がことなり知識上のことなので、信後絶対でない心(自力心)としては不適切のため除外
- 一念とは何べんでもあるものだ。
- 地獄、極楽は、この世にだけあるものだろう。
- 信心いただくと煩悩が少なくなる。
- 阿弥陀如来は、死んだら助けて下さる。
- 地獄は本当に実在するのだろうか。
- 極楽は本当にあるのだろうか。
- 地獄や極楽は心の中にあって、外にはないのだろう。
- 地獄や極楽はあると思う人にはあるが、ないと思う人にはない。
- 念仏はみんな他力の念仏だ。
- 十劫の昔にすでに助かっているのだ。
- 雑行雑修自力の心なんか、判らんものだ。
「信後絶対出ない心」なのに、信前の立場で言っていると思われる言葉
問いと答えが合っていないので除外
- 疑わにゃさえよいのじゃろ。
- 疑いが出なけりゃよいのじゃろ。
- 何にも思わにゃよかろう。
- 極楽は無理でも、地獄へはゆかんじゃろう。
- 極楽はゆかれんでも、化土位はゆかれるじゃろ。
- あの人は、特別の方だろう。(自分は特別でないからまだ救われていないととれる表現)
一念覚知の表現
こういうことを言う人は一念覚知という意味で言いたいのかもしれませんが、問いと答えが合わないので除外
- 一念とは、あんなものか。
- ただとは、こんなことか。