安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞会・750回忌で3日間高森顕徹会長が話したことをまとめると「親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏に救われた人でなければ矛盾としか思えない教えである。それを矛盾と思うのは、まだ救われていない証拠である。そんな教えだから、救われた人から聞かないと絶対分からないので、続けて私の話を聞きなさい」

前回、前々回と親鸞会主催750回忌の内容について、参加された方から頂いた情報よりエントリーを書きました。
今回は、3日目の座談会について書きます。

タイトルにも書きましたが、3日間かけて高森顕徹会長が話したことを簡単にまとめると、以下のようになります。
「親鸞聖人の教えは、阿弥陀仏に救われた人でなければ矛盾としか思えない教えである。それを矛盾と思うのは、まだ救われていない証拠である。そんな教えだから、救われた人(ここでは高森会長)から聞かないと絶対分からないので、続けて話を聞きなさい」

今回に限らず、高森顕徹会長の話は上記の主旨で一貫しています。それを象徴しているのが、3日目の座談会で会長が取り上げた質問です。

質問:親鸞聖人は「小慈小悲もなき親鸞だから人を済度したいという心はない」といわれながら御臨末の御書では「すべての人が人間に生まれたのはこのためかという幸せになるところまで無限にこの世に戻ってくる」といわれ、一見矛盾すると思われることをいわれる。ここが親鸞聖人を世界の光といわれるところだといわれました。
それが二日目の御説法で、その世界の光といわれる所以は、二種の回向を頂くのが弥陀の救いだと言うことを明らかにされたところと理解させて頂きました。そのような理解でよろしかったでしょうか?(2011年10月10日親鸞会主催750回忌座談会の質問)

質問そのものは、前日までに募集されたものを、事前に会長が選んだものです。
これに対して最初に会長は、先に手の内を明かします。

「どうも言うことは分かるけれども、矛盾をしておるのではないか」と、親鸞聖人のお言葉聞いたお言葉の中に矛盾したところがあるのではないかと、それが何か昨日ごまかされていたような気がする。そういう質問ですわね。一言で言うと。
親鸞聖人のお言葉を聞かれて矛盾しているところはどういうところかと言いますと……君(アシスタントO)もそう思うかね
アシスタントO「はい」(2011年10月10日親鸞会主催750回忌座談会での高森顕徹会長の発言)

このような質問を会長が選ぶのも、裏を返せばまさに「会長が参詣者に思わせたかったこと」がそのまま書いてあるからです。

  1. 「親鸞聖人のお言葉には矛盾した表現がある」
  2. 「しかも、説明を聞いてもごまかされたようでよく分からない」

1については、そのように強調して話をしていたので当然です。
2については、説明をあえて一部曖昧にすることで、聞いた人がスッキリとしないように話をしている為です。

上記の質問に対して午前の時間のほとんどをかけた上で曖昧な説明をした後に、終わり頃に会長はこう断言します。

親鸞にまことの心があってのことじゃない、親鸞に清浄な心があってのことじゃない、親鸞に有情利益の心があってのことじゃない。阿弥陀仏から還相を頂いたから、その働きによって「寄せかけ寄せかけ活動せずにおれないのだ、極楽で休んでおる暇などないのだ」こう言われているんです。そこをよく知って貰わないと、矛盾どころではないんです。
親鸞聖人にとっては、当然なことを仰っている。火を見るよりも明らかなことを仰っている。全然矛盾はない。それを矛盾だと思う人は矛盾しておる。(会場笑い)
逆立ちしとる者から言ったら、立っとる者が逆立ちしておる。逆になってくる。自力と他力はそこが違う。
だから親鸞聖人のお言葉を知るときには、親鸞聖人と同じ如来から二種の回向を頂いた人でないと分からない。こうなってくるんです。
で、他力の信をえん人は、親鸞聖人と同じ如来から二種の回向を頂いた人は、仏恩報ぜんためにとて、伝えなければならないのは、この阿弥陀如来の二種の回向ですよ。一つには往相、二つには還相、この二つの回向を十方に等しく広めなさいよと仰っています。
これで、一番最初の質問に答えたでしょ。
まだ分からないところがあったら手を挙げて下さい。(略)どうせこれ一問で今日は終わってしまう。まだ9つも質問が残っている
(略)
全然矛盾はありません。全然まことの心、清浄な心の無いものを、こういうようにさせられるのは全部阿弥陀仏の二種の回向によりさせられると親鸞聖人言われるのだから、全然矛盾は無いんですよ。なんか文句あるか?
アシスタントS「ありません」
なかったら。今日は1問で、あとはいつやるの?
「○月○日にこの二千畳で座談会をしていただきます」(終わり)(2011年10月10日親鸞会主催750回忌座談会での高森顕徹会長の発言)

上記を読んで頂いて分かるように何度も「矛盾」という言葉を使い、阿弥陀仏に救われた者にとっては全然矛盾がない、矛盾があると思うのは救われていないからと強調します。
そして、「親鸞聖人と同じ如来から二種の回向を頂いた人でないと分からない」といい、「残りの質問は9問もある」「続きは次回の座談会」といって3日間の高森会長の話は終わりました。
実際に参加された人も、参加していなくても過去に高森会長の話を聞いたことのある人ならば、よく耳にした言い回しと、話の終わり方だと思われるのではないでしょうか?

今回の座談会の回答では、結局の所「二種の回向」というキーワードが説明されないとまったく理解出来ないという話をしています。ところが、3日間の話を通して、二種の回向についてはほとんど説明らしい説明をしていません。なんとなく説明をしているように話をしていますが、実は全く説明をしていません。

その一例を、座談会で会長が「往相回向」の説明をしているところから抜粋します。

あの一念で阿弥陀仏から「往相」を頂かれた。「往相」を頂かれたということは、往生一定になったということ、絶対の幸福になったということ、無碍の一道に出たということ、定聚の数に入ったということです。
(略)
一念で往生一定にして下される、一念で絶対の幸福にして下される、一念で無碍の一道に出させて下される。これみな阿弥陀仏から頂き物の「往相」なんです。(2011年10月10日親鸞会主催750回忌座談会での高森顕徹会長の発言)

これは「往相(往生浄土の相状)」の説明をしているのだと思いますが、「往相回向」の説明ではありません。
その「往相回向」の説明がないまま、阿弥陀仏はどのようにして私を救って下さるのかについては、「あの一念」で頂くと話を続けています。

その「あの一念」というのは、黒板に書いた縦の線です。
では、「あの一念」はどう説明しているかというと

あの縦の線、政治も経済も科学も医学も全部、あそこへ全人類を出させるために存在するんです。70億の全人類はみなあそこに向かって意識しようとしまいと進んでいるんです。阿弥陀仏のご念力によってそこへ進んでいる。だから今回の災害にあったことについて、前に向かって進もうとか言っているのは、あこ(縦の線)です。あこ(縦の線)でなければ全人類はすくわれませんので、阿弥陀仏から二つのものを頂かないと救われない。阿弥陀仏から二つのものを頂くのはこの一念ですから。(2011年10月10日親鸞会主催750回忌座談会での高森顕徹会長の発言)

ここでわかることは、「あの一念」とか「あこ」という表現で、一念を未来に置いて説明をしているということです。
そして「あの一念で」「往相」と「還相」を頂くと説明をしているのですから、結局どうしてそうなるのかの説明はしていません。
結果として、聞いている人は、とくにかく「あの一念」に進まねばならないと思います。
このように阿弥陀仏の救いを、ただ今ここで救うものではなく、「あの一念で」救うと曲げて説明をしているのが、高森会長です。

往相回向も還相回向も、まともに説明をしないのですからどれだけ真剣に聞いても分かる道理はありません。
そこで、真剣に聞く人ほど話の「矛盾した内容」の疑問が解消されません。しかし「矛盾と思うのは救われていないから」と何度も聞かされれば、「自分が救われていないから分からないだけで、救われた人ならわかることなのだ」と思ってしまいます。

今回の親鸞会主催の750回忌に参加した真面目な会員は「残り9問は、次回の行事に参加したら聞けるからそこで聞こう」「そこで聞いたら今回の不明点もわかるかもしれない」と思って帰った人も多いと思います。
会長の意図がまさにそこにあるのですから、「熱心に会長の話を一字一句理解しようとする会員」ほど、「ただ今救われよう」から「次も聞こう」としか思わなくなります。
親鸞会で言う「信心の沙汰」をするほど「次も聞こう」という思いしか残らない状況が、親鸞会の現状です。そしてそれを推進しているのが、ほかならぬ高森会長です。


高森会長の話は、ちょうど映画の予告編のようなものです。映画の予告編というのは、びっくりするような映像や、思わず気になる台詞が短いカットで何カ所もつながれます。そして最後は必ず、「近日公開!」で終わり、物語の結末は登場しません。映画館に来た人はそれを見て、「気になるから見に行こう」と思って映画館に足を運びます。
映画ならば、ちゃんと公開日から本編で結末を見ることができますが、高森会長の話は予告編だけでいつまでたっても本編はありません。

次回の座談会でも、二種の回向のまともな説明はないと思います。

「あの一念」という未来にあるどこかで救われるのではありません。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となって私に向かって「ただ今救う」「そのまま救う」と呼びかけられています。その声となられた南無阿弥陀仏を、そのまま聞いて疑い無いのが信心であり、ただ今のこの私に向かって働きかけられているのが本願力回向です。
ただ今必ず救われます。「あの一念」ではありません。

参照先サイト 親鸞会公式サイトより

親鸞聖人750回忌(最終日)|浄土真宗 親鸞会