安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

報恩感謝の元は南無阿弥陀仏(nowhereさんのコメント)

信前と信後を問わず、報恩謝徳は自然に為さしめられるものであり、それは「念仏を称えることも、人に伝えることも、人に伝える寺に寄進することも、また仏法を人に謗らせないように身を慎む」ことなどのいわゆる「善」のカタチとなって表われる、という理解でよろしいでしょうか。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100403/1270245047#c1270278256

ひろい意味で感謝するということでならば、コメントに書かれている通りだと思います。
信前に報恩謝徳というのは、感情としてあるのはわかります。ただ、報恩謝徳といえば、阿弥陀仏に救われた上での報恩謝徳といわれます。

弥陀仏本願念仏 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
「弥陀仏の本願を憶念すれば 自然に即のとき必定に入る
 唯よく常に如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべし」(正信偈)

とありますが、阿弥陀仏に救われ、念仏申す身になり、念仏称えることが大悲弘誓の恩に報いることになります。
報恩の行いの元にあるのは、念仏です。念仏は阿弥陀仏が本願で誓われた行ですから、阿弥陀仏の願力により称えさせられるものです。そこから、仏教の本を読んだり、阿弥陀仏のお徳を思い浮かべたり、阿弥陀仏を礼拝したり、人に伝えたり、寺に寄進したり、ひろくは、悪をしないように、善に励むようになっていくのが報謝です。

前回と、今回のコメントを拝見してnowhereさんの質問に対してではなく、個人的に思ったことを追加で書きます。

親鸞会にいたころに、特に財施の話で、「○○というお聖教に××とあるから財施しましょう」という言い方は、よく聞きました。

別の言葉で言い換えますと
「あなたは自覚がないかもしれないが、多大な御恩を受けているのだから、感謝してもしすぎることはないのだ。だから、感謝の形を少しでも表すべきである」
というものです。
こういうことを一般社会でいう人がもしあったら、感謝の強要としか思えない表現です。

これは、親鸞会の中でいわれる人間観と深い関係があると思います。
親鸞会の中でよく聞く話として「全ての人は、我利我利亡者である。自分さえ良ければ良いと思っている。出すのは舌出すのも嫌であり、あげるのは手を挙げるのも嫌である。よって感謝の心など最初から持ち合わせていないのである。」というものがあります。
すべからく人間というのは、感謝の心もなく、自分中心にしか物事を考えられないものであるから、「○○というお聖教に××とある」とでも言わない限り、仏法にお金やものを出すはずがないという確信をもっているからこのように言うのだと思います。

自己反省として、自分は自己中心的であり、感謝の心も無いものだというのはわかりますが、それは他人に対して言ったり思ったりすることではありません。

何か人にして頂いたときに、自然と感謝の心が起きるのが人間というものではないかと思います。親鸞会的人間観を徹底していくと、「このような感謝の心も偽善なのだ」と、感謝した心も自分の中で否定をして、自分も他人も人間不信になっていくという人もいるのではないかと思います。

阿弥陀仏の本願力にあわせていただけば、強要されなくても感謝の心は出てくるものです。それは、南無阿弥陀仏の中に備わっているからです。現生十種の益に「知恩報徳の益」とあるのはそのためです。