安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「道」は「ただ今」とは、相容れないもの(頂いた質問から思ったこと)

「後生の一大事の解決」という言葉が頭にこびりついています。(頂いた質問より)

後生の一大事の解決と言う言葉について、改めて思ったことを書きます。
親鸞会では、後生の一大事の解決という言葉と同時に、求道という言葉がよく使われています。
「道」という言葉が、よく言われていました。
「この世のほとんどのことは死ぬまで求道だが、この道には完成がある」というものです。
しかし、いづれにしても、阿弥陀仏に救われる事を「道」(または横の線)としてしまうと、教義的なこともさることながら、当事者の気持ちに起きる変化が生じます。
道という言葉は、先に進んだ人が有り、自分は遅れている者という前提からスタートします。よく「遅れをとってはならない」も親鸞会では使っていました。あの人は仏縁深い人(信仰の進んだ人)という言い方は、同時に「自分は仏縁浅い人(その人より遅れている人)」となります。何かを学ぶときには、それでもいいのですが、仏法を聞くのは学ぶためではありません。阿弥陀仏に救われる、浄土に往生し仏になるためです。

何かを学ぶときには、先に進んだ人が有り、自分は未熟であるという「道」という発想は良いと思います。しかし、「道」を行く人は見たこともない目的地、ゴールを絶対化するあまり、自分がその道を解決していないことを正当化してしまいます。
「日暮れて道遠し」とか、「少年老い易く学成り難し」と昔から言われるようなものです。

「自分が進んでいるのは道である」という考え方からは、「ただ今、ここで救われなさい」という本願とは基本的に相容れないものです。

道を進むという前提に立つと、どんな努力もそれは「道を進む」努力になり、成就するということにはなりません。ただ今ここで、あなた自身が阿弥陀仏に救われなさい。直接それを導く人は他にはいないし、誰もやっては来ないし、こう進んだらいいと道を指示する人もいない。ただ今私自身が阿弥陀仏に向き合って、阿弥陀仏の願いをそのまま聞くという切迫感が、「道」を進む人にはどうしても欠けてしまいます。

これは伝えると立場に立った場合でも同じ事が言えます。「道」を進んでいるという論理のなかでは、教える人はその道を成就している必要がないからです。武道でも、華道でも、師匠はその道を完成しているわけではありません。自分が学んだり、信じている、求めていることが、本当に正しいかどうかは、師匠の仕事であって、ただ今自分がその道を成就するとか、成就したものを自分の口で伝えるという差し迫った責任から逃れることができるのです。
「なぜ親鸞会の講師は、自分が救われていないことに危機感がないのだろうか」と聞かれることがありますが、それは上記の理由だと思います。

仏教の学問には終わりはありませんが、いわゆる「後生の一大事の解決」には、「ただ今阿弥陀仏に救われる」ということがあります。「平生業成」が親鸞聖人の教えです。
それは、時間的にゴールからこれだけ近いとか遠いというただ今ではありません。私にとってのただ今は、いまにしかありません。

されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。(御文章1帖目4通・自問自答)

解決は道ではなく、現在ただ今阿弥陀仏に救われることです。