安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生が気にかかるかどうかは、気にかけなくてもよいことです(頂いた質問)

いろいろなお聖教や仏教書を読んでいますが、自分の後生はなかなか気になりません。
煩悩にいつも振り回されて、阿弥陀様の声が聞こえません(頂いた質問)

お聖教や、仏教書に書かれてあることは、後生を気にせよということではありません。阿弥陀仏に救われなさいということです。

されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。(御文章5帖目9通・安心の一義

他力の信心をうるといっても、これは全て南無阿弥陀仏の六字のこころです。一切のお聖教といっても、南無阿弥陀仏の六字を信じさせ、阿弥陀仏に救われる為に書かれたものです。
後生に驚きを立たせるものでもなければ、日頃煩悩に振り回されている自分を落ち着かせてくれる、精神安定剤というか煩悩抑制装置ではありません。

こんな煩悩に振り回されていては、阿弥陀仏の声を聞くことはできないと思われる気持ちはよくわかります。しかし、「煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」でありますから、煩悩が燃えさかっているから助からないということではありません。
火事場で救助されるひとが、この火を自分で消してから助けてもらおうと思わないのと同じで、煩悩の火を自分で消して助かるのではありません。

お聖教には南無阿弥陀仏の六字のこころが教えられています。
南無阿弥陀仏の六字のこころとは、上記の御文章の前にはこう教えられています。

これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。(御文章5帖目9通・安心の一義)

往生に関してはすべて南無阿弥陀仏のお働きです。南無とたのむ者を阿弥陀仏が助けるという道理ですから、南無阿弥陀仏というお姿が、私たちが平等に助かる姿なのです。

阿弥陀仏の声とは、阿弥陀仏の私を助けるという名のりですから、南無阿弥陀仏の事です。私を助けようと働きかけておられますから、私の煩悩や後生がどれほど心にかかっているかという自分の心の状態によらず、平等に救われるのです。

昨日から私の住むところでは、雪がつもりはじめました。積雪が10センチを越え、20センチを越えると、どんな庭も真っ白です。人の手が入らず荒れ果てた空き家の庭にも、しっかり手入れのされた庭にも雪は平等に降り積もります。
荒れ果てた庭には雪が積もらないからと、いろいろな石をどけたり、草を抜いたり、花を植える人はありません。

降り積もる雪が降る場所に差別がないように、阿弥陀仏の救いはどんな人も差別をされません。自分の心の庭を気にかけるより、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて下さい。