安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

罪悪観の多少は、阿弥陀仏が救う上での不都合にはなりません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)
御文章に「我が身の罪の深きにも心を懸けず」とか「我が身の罪の深きには目をかけずして」とあるのは、我が身の罪の深さを自覚して「罪つくりの悪いものだ」との自覚のある人に、気にしなくてよいと言われているのであって、「罪である」とか「悪である」とも何とも感じないで平気でいる人は、やはり蓮如上人が、気にするな、言われている相手とは違うのではないか?と思えてきます。
阿弥陀仏の見抜かれた自己まではいかなくても、それなりに罪悪深重のあさましい自分であると自覚した人が、本願を聞ける機であるということはないでしょうか?
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091115/1258243358#c1258283249

回答します。
「本願を聞ける機」という人がいて、本願を聞けない人が本願を聞ける人にならねば救われないと言うことではありません。
「本願を聞ける機」がいるという前提で話をしますと、阿弥陀仏が「この人は助ける」「この人は助けない」と差別をされているように思ってしまいます。
阿弥陀仏の方からは、一切差別はありません。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず(教行信証信巻

真実信心には、身分によって選ばれないし、老若男女も差別なく、造った罪の多少も問題にせず、修行の期間も論じられないといわれています。
「簡ばず」の「簡」は、要らないものを取り除く、余計なものを取り外すという意味があるそうですが、阿弥陀仏の救いには余計な人は一人もいないということです。
また、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜずといわれているのは、本願の前に救われる人救われない人の差別がないということです。別の言い方で言えば許される人、許されない人という差別はないのです。

蓮如上人が、「罪悪を思い詰め・・」、「罪悪に心を懸けず・・」といわれるのは、罪という自分の有り様を問題にせずに、阿弥陀仏の本願に向かいなさいといわれているのです。
上記のようなお言葉の前後には、必ず「弥陀を一心一向にたのみたてまつりて」「弥陀をたのめ」と言われています。

「罪が思えないと助からない」と思われた上で「自分は罪が思えない」というのでしたら、とても助からないような自分はなおさら阿弥陀仏の本願でなければ助かる道はありません。だから弥陀を一心にたのめと蓮如上人は仰っています。

罪悪観の多少で差別をされるような、阿弥陀仏ではありません。罪悪の自覚の有無で、許される人、許されない人があるのではありません。救いの差別は、私の方で作り上げる者です。「あんな人が救われる」とか、「こんな自分は救われない」と本願を勝手に定義づけしてしまいます。

阿弥陀仏からいえば、救う相手は私であって、他の誰でもありませんから、結果として差別はありません。私一人を助ける阿弥陀仏に、ただ今救われます。