安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏が私を救おうという働きを本願力といい、しかも阿弥陀仏の方から差し向けられるので本願力回向と聞きました。しかし、そんな力が差し向けられているのならば、何かそれらしいものを感じてもよさそうなものですが何も感じません。念仏を称えて喜んでいる人は、何かを感じているのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏が私を救おうという働きを本願力といい、しかも阿弥陀仏の方から差し向けられるので本願力回向と聞きました。しかし、そんな力が差し向けられているのならば、何かそれらしいものを感じてもよさそうなものですが何も感じません。念仏を称えて喜んでいる人は、何かを感じているのでしょうか?(頂いた質問)

本願力とは、感じるものかというお尋ねです。


結論から言えば、感じるものですが、私たちが普通感じる火は熱いと感じる皮膚感覚や、塩辛いと感じる味覚、さらさらしていると感じる触覚、よい香りがすると感じる嗅覚ではありません。それなら、何か気配を感じるのでしょうか?そのようにいわれるいわゆる妙好人の言葉も残っています。あるいは、心で感じるという人もあります。しかし、それは全ての人がそうなるとは言えません。


阿弥陀仏が私を救おうというお働きは、本願力回向と言われて、阿弥陀仏の方から私へと常に働いて下さいます。それをまた、仏心とか大慈悲ともいわれます。
その仏心といわれたり、大慈悲といわれるようなものが、人のそれと同じなら私も自分の心で感じられます。人と人ならば、「この人は本当に怒っている」「この人は本当に私を心配してくれる」と感じられます。中には人ではないものの心を感じる人もあって「ガイアがもっと俺に輝けと囁いている」と感じる人もありましたが、そんな人はあっても少数かと思います。(分かる人だけ分かって頂ければいいです)


人の心とは違うものとすれば、本願力は、私たちの日常に譬えると空気のようなものです。空気はそれそのものを感じることはあまりありません。しかし、その空気が動く時に私たちは空気を感じます。例えば、呼吸をすればそこに空気があることを感じます。水中で呼吸をしても水しかありませんから苦しいばかりです。また、空気が動けば、風という形で感じることもできます。
空気には色も音もありませんが、動いて風となったときには風音や廻りのものを動かすことで、目にすることもあります。

空気と風に例えると、本願力という空気が回向されて念仏という風となって現れています。私を救う働きは、常に私のまわりにあっても、それを常に感じることはありません。私が空気を常に感じないのと同じです。しかし、空気はそれが動く時に風となって感じることができるように、本願力が念仏念仏となって私の口から現れる時には、口や耳で私は南無阿弥陀仏を聞くことができます。その意味で私は、耳と口で本願力を感じることが出来ます。

こういうと、「どうしてそれが本願力なのですか?私の声ではありませんか?」と思われる人もあるとあるでしょう。
念仏は、声ですが、声は空気がなければ発することができません。同様に、念仏も、本願力がないところでは出ません。それは、真空状態ではどれだけ扇風機を回しても風が起こらないのと同じことです。
また、吸う息、吐く息が「私のもの」と思う人はないでしょう。なぜなら、私は空気を生み出す事はできないからです。同じように、南無阿弥陀仏と私が称えていても、その南無阿弥陀仏は私が生み出したものではありません。阿弥陀仏の本願が成就したすがたであり、本願力が働いているかたちなのです。


その本願力にあうひとは、必ず救われます。

本願力にあひぬれば 
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 
煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃)

本願力にあうとはどういうことか、一念多念証文に親鸞聖人はこう言われています。

「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。

本願力にあうとは、本願力を信ずることです。信ずるとは、本願力が常に私に働いて南無阿弥陀仏となって下さっていることを聞いて疑い無いことです。空気のように、それなしでは私は生きて行くことが出来ないのが、本願力であり念仏です。ただ今救う為に、常に私に働いて下さいます。ただ今救うのお働きにただ今救われて下さい。