orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
聞と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて、疑心有ること無し。これを聞と曰うなり。
のお言葉について教えて頂けませんでしょうか。(orimaさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090703/1246622910#c1246921974
回答します。
大無量寿経・下巻の本願成就文にある「聞其名号信心歓喜乃至一念」の「聞」について、親鸞聖人が教行信証信巻に書かれたお言葉ついてのお尋ねです。
しかるに『経』(大経・下)に「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞というなり。
「聞」とは、仏願の生起(阿弥陀仏が本願をなぜ起こされたのか)本末(その本願が成就されたこと)を聞いて、疑心有ることなしというのこと、これが「聞」であるといわれています。
聞くというのは、どういうことかについて親鸞聖人が教えておられます。「疑心有ることなし」というのが「聞」なのだといわれています。
仏法の話を聞かれれば、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのか、どのようにして名号を成就されたのかということを、聞かれることがあると思います。
ここでいわれる「聞」とは、聞いてきたということではありません。
蓮如上人は御文章にこのように言われています。
されば『経』には『聞其名号・信心歓喜』と説けり。『其の名号を聞く』といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実に聞くにあらず、善知識にあいてその教を受けて、この南無阿弥陀仏の名号を、南無とたのめば必ず阿弥陀仏の助けたまうという道理なり。これを『経』に『信心歓喜』と説かれたり。(御文章1帖目15通・宗名当流世間)
「その名号を聞く」とは、南無阿弥陀仏の名号をただ聞くと言うことではなく、善知識にあいその教えを受けて、南無阿弥陀仏の名号をたのむ一念で阿弥陀仏が助けて下されることなのだといわれています。疑いなく、南無阿弥陀仏の名号を頂くことを言われています。
南無阿弥陀仏の名号を聞く、頂くままが信心ですから、信心決定の姿なのです。
親鸞聖人のお言葉も、「聞」とはどういうことか、南無阿弥陀仏の名号を頂いて疑心のない姿になったことだということです。御文章に書かれているように、それを「信心歓喜」といいます。
阿弥陀仏より南無阿弥陀仏の名号を受け取る一つですくわれるのですから、私がこうやって聞いたからとか、こう思ったから、こう思わねばならないということではありません。
往生の業にはわたくしのはからいはあるまじく候なり(末灯鈔)
と言われるとおりです。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。