安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

なぜ生きるの本にある「機の深信」は罪悪観と混同しているのか?について(S会会員さんのコメント)

S会会員さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

『なぜ生きる』という本に、
・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。
これを「機の深信」といわれる。聖人には、自己の告白が多いが、みな機の深信である。いくつかを紹介しよう。
悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し〜
                (221ページ)とか
・無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。
 煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし〜
                (260ページ)
と書いてありますが、こうした部分も機の深信と罪悪観?と混同して書いてあるということでしょうか?
またこの本の記述が仮に間違っているとしたら、他力の信心を得ているひとでもこの辺を混同することはありうるのでしょうか?(S会会員さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090707/1246970640#c1247147230

なぜ生きる

なぜ生きる

回答します。
著者が機の深信と信後の罪悪観を混同して書いているのか、わかっていてあえて書いているのかはわかりませんが、本の構成自体は、混同して書いてあります。

「機の深信」については、あほうどりさんがコメントされている通りです。

二種深信=信楽=真実信心
です。
機の深信はその一つの相です。
少し難しく言いますと、自力無功を表します。(あほうどりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1247063685

しかし、「なぜ生きる」では、機の深信がこのような定義で書かれていません。別の意味で書かれています。別の言葉で言えば、「真実信心を獲得して知らされた罪悪観も含めて知らされる自己の姿=機の深信」と定義されていると思われます。

例:なぜ生きる 第2章17 善いことをすると腹が立つ
・わずかなクッキーを隣家にプレゼントしても、「ありがとう」の一言がなかったらおもしろくない
・偽善者とは「人の為と言って善をするもの」。しかし、まわりの人のためだとわかっていても、タバコすらやめられない

上記は、罪悪観について書かれている章ですが、第2部14の機の深信とはなにかという流れで書かれているので、読んだ人は、「これも機の深信なのか」と思います。

親鸞聖人のお言葉に関しては、「機の深信(真実信心)から出たお言葉(信後の懴悔・罪悪観)」と、「機の深信(真実信心)」が同じ「機の深信である」と定義して書かれているからです。どちらも真実信心(機の深信)があった上での聖人の著作ですから、おおざっぱにいえば同じと言うことで書いているのかもしれません。

コメントで書かれた部分につきましては

・無明の闇が晴れると、自己の姿がハッキリ見える。

これだけでは、機の深信と罪悪観が混同しているとはいえません。

無明の闇が晴れると、すべてが永久に救われぬ、無ザン無ギの極悪人と知らされる。これを「機の深信」と説かれている。

これに関しては、「すべてが永久に救われぬ」が機の深信とすれば、「無慚無愧の極悪人と知らされる」は罪悪観です。この二つを「機の深信」と定義しています。この定義でなぜ生きるという本は書かれています。「なぜ生きるという本のなかでの機の深信」で書かれているのです。

真実信心の人でも混同するのですかという点ですが、真実信心を間違えることはありませんが、教義を解説するということでは間違えることはあるでしょう。
別の言葉で言えば、自身が阿弥陀仏に救われ、弥陀の浄土に往生するという点、自らの力で往生することはできない点については阿弥陀仏の願力によるので間違えることはありません。真実信心については間違わないというのはそのことです。機と法に疑心有ること無しは、どんな人も変わりません。

人に説明する段では、混同することはあると思います。これは「機の深信という言葉の意味は?」「罪悪観とは違うのか?」というのは、言葉の定義であり、学問です。学問をしなければ、「自分が知らされた自分の姿」を全部機の深信のお言葉「罪悪生死の凡夫」と結びつけて考える人もあるでしょう。

自らの信仰を求める際には、親鸞聖人のどのお言葉が機の深信か、どれが罪悪観かを知らねば助からないということはありません。
ひらたくいえば深信ですから、疑心有ることないことです。問題になるのは、疑心(自力)であって、どのお言葉が機の深信かということではありません。

結果どういう自己の姿を知らされるのかという感じ方には、個人差はあります。

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ(悲歎述懐和讃)

このようなお言葉は、身を粉にしてのご布教があったからこそのお言葉であって、真実信心を獲得したすべての人が、平等に、救われたらすぐに思うことではありません。

真実信心を獲得しなさい、阿弥陀仏に救われなさいと、親鸞聖人は勧められました。悪人と知らされなさいとはいわれていません。

ただ今救う本願があり、南無阿弥陀仏を与えようと阿弥陀仏は働いておられます。ただ今阿弥陀仏に救われる事が有ります。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。