花さんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。
信じる心について考えれば考える程判らなくなってきました。信じる心があるから、阿弥陀仏の救いを求めているのだと思うのですが、今助かりたいと阿弥陀仏に向かい、よくよく自分の心を見つめてみると、本当に救われるということがあるのか?助かるということがあるのか?阿弥陀仏は本当おられるのか?私のような努力不足な者は後回しでないか?といろいろな疑いの心が出てきますので、私には信じる心はないのではないかと思いはじめてきたのですが、このような理解でよろしいのでしょうか???(花さんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090503/1241306555#c1244424137
回答します。
「信ずる心があるのかないのか」という問いには、「ない」のが正解です。
ないものだから、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏を成就されたのです。
南無阿弥陀仏の南無は、信ずる心であり、これは阿弥陀仏が与えて下される心です。
「この信ずる心も念ずる心も、弥陀如来の御方便より発さしむるものなり」と思うべし。かように心得るを、すなわち他力の信心を得たる人とはいうなり。(御文章2帖目1通・御浚え)
信ずる心も、念ずる心も阿弥陀如来から発されるものなのです。
助かりたいという心も、阿弥陀仏からおこされたものです。
信じる心がないから、阿弥陀仏を信じる、信心一つが大事です。