安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救い」とはどういうことか?(はてな?さんのコメント)

はてな?さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

ただ今救うという本願に、ただ今救われて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295

この「救い」とは、具体的にどういった内容のことなのでしょうか?
これまでのエントリーを拝見していて、ハッキリしませんでしたので、教えて下さい。

毎日の生活など、いろいろの苦しみがありますが、それとの関係で、おっしゃる「救い」はどのように関わってくるのでしょうか?
救いが得られても、毎日の苦しみは何も変わらない、ということでしょうか?(はてな?さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295#c1255081420

回答します。
救いというのは、具体的にいいますと、阿弥陀仏が差し向けてくださる南無阿弥陀仏の働きで、現在に正定聚の位に入り、死ねば弥陀の浄土へ往生し仏のさとりをひらくことを言います。

真実信心うるひとは
すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ(浄土和讃

親鸞聖人のご和讃には、このように言われています。南無阿弥陀仏の働きで救われた真実信心うる人は、そのとき正定聚の数に入り、必ず死ねば弥陀の浄土へ生まれて仏のさとりをひらくといわれています。

毎日の生活の苦しみと、救いそのものは、全く関係がありません。
病気で苦しむ人の病気が治るわけでもありませんし、景気が悪くて苦しんでいる人の景気が良くなるわけでもありません。人間関係で苦しんでいる人の、人間関係が劇的に改善するわけでもありません。

それらの苦しみが、往生の障りにならなくなるだけです。
毎日の苦しみは変わりませんが、往生一定の身にさせていただけるということです。

煩悩具足の凡夫自体は何もかわりません。南無阿弥陀仏の法をうけとったという点で変わります。

決して「○○している者は助かる、○○しない者は助からない」という本願ではありません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295

「念仏衆生摂取不捨」と説かれていますが、
『念仏している者は助かる、念仏しない者は助からない』という本願ではないのでしょうか?(はてな?さんのコメント)

これについては、「念仏する」と親鸞聖人が言われる場合は、阿弥陀仏によって称えさせられるものだと教えられています。

一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。(歎異抄8章

○○している者は、助かるたすからないと言った場合の、「○○」は、「我が計らいにて作る行や善」を指して言います。
阿弥陀仏のお力で念仏させられるので、「念仏する者を救う」とは、言い方を変えると「救ったものは念仏称えさせる」と言っても同じ事です。その意味で、念仏とは、私のする行でも善でもないので、「○○している者は助かる、助からない」という「○○」には入りません。
「わが計らいで称えた念仏」で、往生するということではありません。

本願に誓われている念仏とは、阿弥陀仏の方から見れば、私たちを救うための大功徳の南無阿弥陀仏であり、私がそれを受け取った姿から言えば信心といわれます。
「本願を信じ、念仏するものを、浄土に往生させる」というのが、阿弥陀仏の本願です。