安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分を追い詰めて活動しないと助からないのでしょうか?(メールで頂いた質問)

メールで頂いた質問ですが、大事な内容だったので、みなさんにも知っていただきたいと思い、エントリーします。メールの文章は一部改変しています。

「阿弥陀仏は機に応じて救ってくださるから、親鸞聖人みたいな修行をできる人でないと救われないということはない。」と聞きました。

親鸞聖人のような優れた機の方はすごい修行をされ、法然上人に出会われてからも(聖徳太子への3日3晩の祈祷から想像しても)相当すごい聞法をされたであろうと思います。
機に応じてといっても、その人の機なりに(どんな行ができたかどうかではなくて)目いっぱい苦しんで阿弥陀仏に向かって求めた人でないと救われないのではないか?
目いっぱい求めているかと問われれば、ぜんぜん楽ではないけれど目いっぱいとは言えないから、やはり救っていただけないのではないか?などと、どうしても思えてきます。
楽したい怠惰な自分にとっては、もう(本当は)求める苦しみも終わりにしたいくらいなのですが・・。
機に応じて救ってくださるとはどういうことなのでしょう?(お聖教の根拠はあるのでしょうか?)
自分を追い詰めて聴聞、顕正、六度万行などに取り組んでいかなくても、本当に助けていただけるのでしょうか?
すごく聞法活動している人をみると、どうしても自分はまだまだ助けていただけないのでは?あの人たちが先に助けていただけるのでは?と思うのです。
教えてください。よろしくお願いします。(メールで頂いた質問)

回答します。
機に応じて救って下さると言うことについて教えられた親鸞聖人のお言葉は、こちらです。

釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり」(高僧和讃)

と親鸞聖人は教えておられます。

阿弥陀仏とお釈迦様は慈悲の父であり母であります。相手に応じていろいろと方便して、私たちに真実信心を獲得するまで導いて下されるのだということです。
親鸞聖人のような山で20年修行をしなければ助からないということでもありません。学問をものすごい量しなければ助からないというものではありません。
無常が問題になって求める人もあれば、罪悪が問題になって求める人もあるでしょう。阿弥陀仏の願力によって救われるのですが、その願力がかかる私たちは、一人一人持っている業が違います。結果として、いつ、どこで、どうやって救われるかは、一人一人違います。
救われたときが、20才の人と、40才の人と、60才の人では、それまでの聞法歴も違うでしょうし、念仏の量も違うでしょう、行った善行も違うでしょう。救われて振り返れば、「阿弥陀仏がこうして導いて下されたのか」と一人一人が知らされるのであって、「私がこうしなかったら助からなかった」と思うものではありません。

質問された方より聞法歴も長い人もあるでしょうし、活動している人もあると思いますが、それらの人が救われていないといっても、聞法歴や活動量は、救いと無関係なので気にする必要はありません。
「あの人が先に救われるのでは?」と心配されても、現時点で活動で救われた人があるでしょうか?
先に救われようが、往生は一人一人のしのぎです。先に救われる人が有っても、それは阿弥陀仏のお働きであって、その人の善根の結果ではありません。

問題は、「雑行を棄てて、弥陀をたのむ」かどうかです。

聞法の長さではないのです、活動の量でもないのです。ただ今弥陀に救われようと、弥陀の救いにむかっていくかどうかです。
活動や聞法で苦しんで助かるのではありません。苦しんだら助けて下されるだろうというのは、計らいです。こうしたら助けて下されるだろうという計算は、自力の心なのです。

一番は、「自分はまだ助からないのでは?」と、救われる時と現在に距離をあけて、ハードルを設ける心が救いを妨げているのです。それは阿弥陀仏が作っているのではなく、自身が作っているものです。

「阿弥陀仏は必ず助けて下される」という大前提で、ただ今救われて下さい。