安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生に驚く、真剣な求道とは強迫観念の代名詞ではありません(メールの質問)

メールで質問を頂きました。質問までの文中でブログを読まれる方にも知っていただきたい内容がありましたので、抜粋して回答します。

お勤めも,真剣にできたためしがありません。「こうやってお勤めしていれば大丈夫だろう」という自力の心も見えます。もしこのお勤めしないことにしたら,救われないのではという不安が背後にあるからです。お勤め中も,心は五欲を離れたことがありません。(メールより抜粋)

まず、「このお勤めをしないことにしたら、救われないのではという不安」は意味のない不安です。阿弥陀仏に救われても、「あのときお勤めをしたから」とか「あのとき聴聞に行ったから」というようには思う心は起きないからです。
「もし、もう一回お勤めをしていたら助かったと臨終に後悔する」と思うかも知れませんが、それは「臨終に後悔する」という前提の話です。
浄土真宗は、平生業成です。平生業成とは、平生に救われると言うことですから、臨終に後悔するとかしないとかいうことは、そもそも問題にすることではありません。
「臨終に後悔するぞ」「死ねば一大事だぞ」も同義語ですが、そのようにいって何かをさせるというのは、浄土真宗ではありません。

念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず。(口伝鈔)

と覚如上人が言われているとおりです。

後悔と言うことについて、親鸞聖人が仰っている部分についても、今お勤めしなかったら臨終にという意味の臨終のことを問題にしておられません。

呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ。(教行信証行巻)

呼吸をする間に次の生がやってくる。一度この人間の体を失ったらならば、万劫にもかえってくることはない。ただ今救われなければ、仏様でも救うことはできない。願わくば、深く無常を念じて、決して後悔をのこすことのないようにといわれています。「この時悟らざれば」といわれていますように、救われるのは、今ではない臨終ではなく、「この時」であり「ただ今」のことなのです。
ただ今救われなければ臨終に後悔するから「ただ今救われよ」とは仰っていますが、臨終に後悔するから今勤行しなさいとは言われていません。臨終に後悔するから今財施しなさいともいわれていないのです。ただ今救う弥陀の本願を差し置いて、その前にまず○○をしなさいといえば、その○○が救いの条件となり、その上○○してからという時間の経過からいっても「ただ今の救い」にはならないのです。

何一つできないのに自分の力で助かろうとする己惚れがあります。(同上)

自惚れ心といっても死ぬまでなくならない自惚れと、阿弥陀仏に救われるとなくなる自力の心と2つあります。
阿弥陀仏を疑うから自分であれこれ足しにしようと思う意味では、自力の心と言えますが、「自分は助かる者」と思っているのは死ぬまで無くならぬ自惚れ心なのです。

死ぬまで無くならぬ自惚れ心は、阿弥陀仏に救われても変わりませんので、阿弥陀仏の救いとは無関係です。関係あるのは、自力の心です。

南無阿弥陀仏を頂く以外にないという気持ちです。
疑いを何とかして捨てようというよりは,南無の心を頂きたい,信ずる心を頂きたいという心が自分にぴったりときます。

疑いの心を捨てて救われる=自力の心を捨てて救われる=南無阿弥陀仏を頂いて救われる,でしょうか。

回答しますと、「捨てて救われる」ではなく、「疑いの心を捨てよ」=救われる=南無阿弥陀仏を頂く=救われるということです。

阿弥陀仏が信じられないから、信じられるようになりたいとのことですが、信じるとか信じないということよりも、救われるということが大事なのです。
信じるようになりたいというのは、信じられるようになったら助かるという考えから出てきているのだとおもいます。
信心一つの救いとは、信じる心の無いものを、信じるように変化させて救うと言うことではありません。邪見憍慢悪衆生は救われても邪見憍慢悪衆生であって、阿弥陀仏を正見し、自分は善ができないものと反省するような立派な人間にさせるという救いではありません。

ただ今の救いとは、信ずる心の無いものを、信ずる心のないまま救うので、仏心と凡心と一体となるといわれるのであって、仏心が凡心になるのが信心獲得ではありません。