安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

歎異抄第2条の「総じてもつて存知せざるなり」について考える

歎異抄第2条の中で、親鸞聖人が関東の同行に、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。」と言われているところがあります。
以前、質問されたこともあったので、なぜそのように言われたのかを考えて見ました。


なぜ「総じてもって存知せざるなり」と親鸞聖人がいわれたのかについては、私は関東の同行に「これで間違いない」と念仏を自分でわかるものと思わせないためであったのではないかと考えます。
もう一つ考えられるのは、「あの人がいうから間違いない」と特定の人の言葉だけを信じて阿弥陀仏の仰せを聞かない知識帰命を否定するためではなかっただろうかということです。


歎異抄第2条は、往生極楽の道を聞くためにが京都の親鸞聖人の元へやってきた関東の同行に対して、親鸞聖人がお話されたことという形式で書かれています。関東の同行が、京都の親鸞聖人のところへやってきた大きな理由の一つが、関東に派遣された善鸞の言うことが、親鸞聖人の教えと異なっていたからです。
善鸞は秘密の法文があると言い始めました。

慈信坊(善鸞)のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、日ごろの念仏は、みないたづらごとなりと候へばとて(御消息第33通・註釈版聖典P795

それを聞いた関東の同行は、念仏以外に往生極楽の道があるのだろうかと不安になり、親鸞聖人にそれを確認するためにやってきました。関東から京都まで徒歩で身命を顧みずにやってこられたのですから、その問いかけは大変真剣なものであったに違いありません。

それに対して親鸞聖人は、念仏以外に往生極楽の道があるというのは大変な間違いである。もしそう思うのなら奈良にある沢山の寺や、比叡山にいる学者に往生の道を聞いたらいいだろうと仰り、念仏以外に救いの道があるということをきっぱりと否定されます。


その後に、以下のお言葉が続きます。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第2条・註釈版聖典P832

親鸞聖人がご自分の名前をだして、念仏について仰っています。法然上人の「ただ念仏して、阿弥陀仏に助けて頂こう」という教えを頂いた信ずる以外にありませんと答えられています。

関東の同行が尋ねてきたのは、念仏が往生極楽の道かどうかを確認しにきたのですから、ここまでの話をきいた関東の同行の心は、「やっぱりそうだったんだ」と思ったことでしょう。

もう少し気持ちを想像しますと「親鸞聖人からくりかえし念仏の教えを聞かせていただいていたから間違いはないと思う。だけど、本当に『私が思っている念仏で間違いないという考え』が正しいのかどうかを尋ねたい」という心だったと想像します。
複数の同行がその場にいたわけですから、中には「私の考えた通りだった」「私の思ったとおり念仏が往生極楽の道だったのだ」と思った人もあったでしょうし、やっぱり「親鸞聖人は間違いない方だ」と思った人もあったかもしれません。


その後に続けて仰ったのが以下の部分です。

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。(歎異抄第2条・註釈版聖典P832

念仏が、浄土に生まれるたねか、地獄に堕ちる業なのかは、親鸞はまったく分かりませんといわれています。これは、阿弥陀如来の本願に願われた、南無阿弥陀仏の念仏が、正しいとか、間違いとか、どんな働きがあるかという判別ができる智慧は私にはありませんといわれているところです。


凡夫は、本願の仰せである南無阿弥陀仏を疑いなく聞いているだけです。念仏が正しいと判断できる智慧があると思い、その判断に基づいて念仏しているは、自力の念仏です。

関東の同行の「これで間違いない」と念仏を我がものとして掴んで帰ろうとする人があることに対して、「それは間違いだ」と仰られたのが「総じてもって存知せざるなり」のお言葉だったと思います。
また「親鸞聖人が言われたのだから間違いない」と、「特定の人の言葉」だけを聞いて阿弥陀仏の仰せを聞こうとしない人があったのかもしれません。「あの人がいうから間違いない」というのは、知識帰命(善知識だのみ)となり間違いです。


南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の「我をたのめ、必ず救う」の仰せです。人間の言葉でもありませんし、自分で判断できる程度のものではありません。「正しいのなら称えてみようか」というようなものでもありません。
南無阿弥陀仏は、人から聞くのではなく、阿弥陀仏から聞くのです。人を経由しないと聞けないと思うのもまた、知識帰命です。
南無阿弥陀仏と働いて下さる、阿弥陀仏の仰せを疑いなく聞いて往生浄土の身に救われて下さいということで、親鸞聖人は歎異抄第2条の中でいわれたのではないかと思います。