安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

比叡山の修行で罪悪観が深まって救われたということはありません(papaさんのコメント)

前述のエントリーで議論がされている中のコメントについて、エントリーします。
S会会員さんのコメントに対する、papaさんのコメントです。

「罪悪感を掘り下げていった先に機の深信があるとは会長が言ったことはないと思います。」と書かれてありますが、6月21日の降誕会ではっきりと、「親鸞聖人は20年間の比叡山でのご修行をされたから、いずれの行も及びがたき身、と知らされ、すべての人を極悪人と誓われた本願と相応した」と
言い切られました。
機の深信との言葉こそ出てきませんでしたが、「極悪人と誓われた本願と相応」=「機の深信」ではないでしょうか?
本願と相応する罪悪感など、それこそ何十年、聞いたことがありません。
願力によってのみ本願と相応すると、ずっとT先生が説かれていたからこそ、降誕会の発言にはびっくり仰天した次第です。
(驚いている人があまりいないのもまた驚きですが・・今までどのように聞いてこられているのかと。)(papaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090706/1246861493#c1246976166

このコメントについて、思ったことをエントリーします。
上記のような話があったということですが、言葉通りとすれば、これは浄土真宗ではありません。
papaさんが「びっくり仰天」されるのは当然です。

それについて言い間違えというコメントもありました。では、正確にはどういうべきであったのかということを考えます。

結論から書きますと、以下のようになります。

  1. 親鸞聖人は20年間の比叡山でご修行をされた後、聖道仏教では助からないと山を下りられた。
  2. その後、法然上人に巡り会い、阿弥陀仏の本願を聞かれ、阿弥陀仏の本願に相応し、いずれの行も及びがたき身、と知らされた。

もちろん、(1)と(2)の間には、因果関係はありません。時系列上のことを並べただけです。

比叡山の修行、自力聖道仏教について親鸞聖人は阿弥陀仏の救いと関係有るか、ないかということについては、全く関係がないといわれています。

末法五濁の衆生は 聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ 教主世尊はときたまえ(高僧和讃)

末法の世では、聖道仏教の修行をしても一人もさとることはできないとお釈迦様は言われていると親鸞聖人はご和讃に書かれています。
救いと関係があるのならば、このようには言われていません。
また、罪悪観が深まるために修行が必要だったという意見もあるようですが、阿弥陀仏に救われるための必要条件として罪悪観が深まらなければならないということはありません。
阿弥陀仏の救いにあうための必要条件はありません。「こうしなければならない」「こうならなければならない」というものはありません。

「善をする(すすめる)ことは、よいことである」は、倫理の問題です。
よって、「悪を知らせるためには善をするしかない」というのも倫理の問題です。それ自体は、倫理的に多くの人が反論できないことです。反論できないことと知りながら声高に叫ぶのは、一向専念無量寿仏を叫んで流刑にあわれた親鸞聖人の精神とは著しく異なります。親鸞聖人というより捕鯨反対運動家に近いのではないでしょうか。

「鯨の命を守れ」ということ自体は、倫理的に正しいことです。正面切ってそれは間違いとは言えません。しかし、日本の食文化という観点から日本政府は反対を表明しています。それは文化的な意味での反対で、「鯨を殺すこと=善」といっているのではありませんが、捕鯨反対の人には通じないようです。

上記にあげた、捕鯨反対の人のように「善をすすめることは善いこと」という、それ単独では否定できない意見を声高に叫んでも、相手は強く反論できません。しかし、それは主張していることが倫理問題なので、念仏に対する疑謗もおきないでしょう。

しかし、阿弥陀仏の本願は倫理の問題ではありません。浄土真宗は、真実の宗教であって、最高の倫理ではありません。善をしなければ救われないのでもなければ、(倫理的)悪人と知らされなければ救われないのでもありません。

弥陀の浄土に往生出来るかどうかは、阿弥陀仏の願力一つによるのであり、南無阿弥陀仏の名号一つなのです。