安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

何を疑っているのかを知るということ(最後の学徒さんのコメント、姥さんのコメントより)

前回のエントリーで、わかりにくいところもあり、質問を頂きました。

最後の学徒さんから質問を頂きました。

「教えに対する疑い」が「疑情」で、捨てものであるというのなら、「何も考えないことが善」、「疑問が起きても質問することが悪いこと」になってしまいます。「合点せよ」も間違いになってしまいます。また、救われたら教義に対する疑いは一点もなくなるということになります。
疑っているのは「本願」ですか?「知識の言葉」ですか?(モグタンさん、maryさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

いつも有り難く読ませて頂いています。
すいません。上記の部分がよく分かりませんでした。
詳しく教えて頂けないでしょうか。
(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090228/1235782851#c1235807624

浄土真宗では、疑情は捨てねばならないものと教えられています。また、疑情のことを仏智疑う罪ともいわれ、大変恐ろしい罪であると親鸞聖人も教えられています。それと教学上の疑問というのは別物です。

仏智うたがう罪ふかし
この心おもいしるならば
くゆる心をむねとして
仏智の不思議をたのむべし(正像末和讃)

仏智疑う罪、阿弥陀仏の本願を疑う罪は大変深く恐ろしいものである、この心が恐ろしいと言うことを知るのならば、後悔する心をもととして、阿弥陀仏の本願に早く救われなさいと言われています。

これを聞くと、仏法に関して疑いを持つことは、何でもかんでも恐ろしい罪だから、何もいわないでおこうと思う人があります。
もしそうならば、信心の沙汰をすすめられるはずがありません。

今月報恩講七昼夜のうちにおいて、各々に改悔の心を起して、わが身の誤れるところの心中を、心底に遺さずして、当寺の御影前に於て、廻心懺悔して、諸人の耳に之を聞かしむるように、毎日・毎夜に語るべし。(御文章4帖目5通・中古已来)

この報恩講7日の間に、それぞれが改悔の心を起こして、自分の間違っている心の中を残さず、この寺の親鸞聖人の御影の前で、懴悔して、一緒に来ている人の耳に聞かせるように、毎日毎晩語るべしといわれています。
信心の沙汰の場で、これは言ってはならない、これは言うべきではないと自分で心の中に残している者があれば「心底に遺さずして」語ることはできません。

疑情というのはあくまでも弥陀の本願にむかって、ただ今救われようとした人に出てくる心で、その心が出ない人が何をおもっても、それは捨てねばならない自力とは違います。自力と、教義上の疑問がはっきりとわからないから、なんでもかんでも疑わないのが善となるのです。

いろんな疑問が起きても、それを考えないようにして「疑わないようにして、あとは聞くだけ」となったり、教義上の疑問が、一通り無くなると、「あとは聞くだけ」と安楽椅子に腰をかけます。

十人ありとも百人ありとも、皆悉く極楽に往生すべきこと、更にその疑う心露ほども持つべからず。(御文章5帖目14通・上臈下主)

10人いても100人いても、極楽に往生するには、阿弥陀仏の本願を疑う心は露ほどももってはならないと蓮如上人はいわれています。露ちりほどももってはならないといわれている阿弥陀仏の本願に目が向かなくなってしまいます。
本願から逃げていては、本願にむかったときに出てくる疑い(自力の心)も分かる道理がありません。
合点せよとは、捨てねばならないものがら、雑行雑修自力の心、阿弥陀仏の本願を疑う心を合点せよと言うことなのです。

阿弥陀仏に救われるということは、その疑情、阿弥陀仏の本願を疑う心が、阿弥陀仏の願力によって捨てさせられるのであって、教学上の疑問がすべて解消するということではありません。もしそうなら、阿弥陀仏に救われた人はみな親鸞聖人のような仏教の大学者になると言うことになってしまいます。

もし、阿弥陀仏に救われたら教義上の疑問が一気に解消するというように思っている人がいれば、それは「分かったのが信心」と思っている人です。「分からないからまだ救われていない」と思っている人です。

真実信心とは、「分かった」ことではありません。雑行雑修自力の心が廃ったことなのです。救われても、教学上の疑問は一人一人それぞれいろいろとあります。

最後になりましたが、姥さんからコメントを頂いております。

お話では真宗は信心一つ雑行自力の心を捨てて弥陀一仏に帰依し南無阿弥陀仏六字で救われる教えと言われました。
(略)
小石がカチと竹箒に当たった瞬時・・アア弥陀の声に聞こえた・・瞬時に自然と念仏が次々と出たと仰られました。
此れが知恵才覚捨てて煩悩抱えたお助けですか?これも自力ですか?』
(姥さんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090224/1235434008#c1235802651

「弥陀の声が聞こえた」から信心だということはいえません。「念仏が次々と出た」のが信心でもありません。あくまでも「雑行雑修自力の心」が廃ったかどうかなのです。自力が廃ったかどうかは、その方と阿弥陀仏にしか分からないことです。具体的な体験談は人によって表現が異なるので、姥さんのコメントの中に出てこられた方の言葉では、私にとっては伝聞ですし、真実信心かどうかは、述べることはできません。また私が判定することでもありません。

これについては、よこやりさんからコメントを頂いております。他の方でも、ブログのエントリーに限らず、コメントでも思われたことはどんどん書いていただければ幸いです。

何が真実信心か、どういったのが救われた姿なのかは、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉からよくよく聞かせて頂きましょう。

大事なことは、我が身の信心獲得です。現在ただ今の弥陀の救いに救われてください。