安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

肉体の命が死ぬと同時に弥陀の浄土に往生させ、往生と同時に成仏させる(質問さんのコメント)

質問さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

超証する「大般涅槃」と「無上正真道」は、同じさとりである、とご回答頂きました。
では、
「臨終一念」の夕に超証するのが大般涅槃、
「一念須臾」のあひだに超証するのが無上正真道、
「大般涅槃」と「無上正真道」は同じさとり、ということですから、

「臨終一念」の夕に超証するのも、「一念須臾」のあひだに超証するのも、
行者にとって同じ時のことなのではないでしょうか?

前回、こういう趣旨の質問をしたかったのですが、私の表現が分かりにくかったかもしれません。(質問さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090610/1244636351#c1244674052

コメントを頂き、質問の意図がわかりました。
「大般涅槃は、臨終にさとるのか、往生してからさとるのか?という問い」でよろしいでしょうか?

「臨終」は具体的な時、「須臾」は具体的な時ではなく短い時間を差す言葉であり、「臨終」と「須臾」が違う言葉ということは、もちろん理解しております。前者は臨終の時さとる、後者は一念(短い時間)でさとる、が文意ということも理解しております。(同)

臨終一念の夕べについて、前回のエントリーで

臨終一念の夕べというのは、臨終のときをいいます。命が終わると同時にという意味です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090610/1244636351

と書きました。命が終わらねば、往生出来ませんので、「大般涅槃を超証す」るのは、往生すると同時のことです。
あげていただいたもう一つの御文でも「大願清浄の報土には」ですから、浄土に往生しての事だと理解しています。

ご回答内容をまとめると、「この肉身の命が終わって、その後往生して、その時一念でさとりをひらき、即成仏する。」ということで理解しましたが、宜しいでしょうか?(同)

はい。
命が終わると、往生は同時ですから、もう少し言葉を加えますと、肉体の命が死ぬと同時に弥陀の浄土に往生させ、往生と同時に成仏させるということです。

煩悩具足の凡夫の私から煩悩は出たり消えたりしません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090610/1244636351

末燈鈔に、「仏の御ちかいをききはじめしより、無明の酔いも、ようようすこしずつさめ、三毒をもすこしずつこのまずして、阿弥陀仏のくすりをつねにこのみめす身となりて・・・」とあります。
薬を飲んでいけば、だんだん毒が抜けていく、といった表現で、分かり易くたとえられています。阿弥陀仏の光明(薬)が煩悩(毒)を照らし焼いてくれる、というのが素直な理解と思ってました。
ここで言う無明も、三毒も、煩悩のことですから、煩悩が減っていくと親鸞聖人は説かれているのではないのでしょうか?(同)

これに関しては、「仏の御ちかいをききはじめしより」の部分は、阿弥陀仏の本願を知らなかった人が、阿弥陀仏の本願を聞くようになった、聞法するにようになったことだと私は理解しています。
同じく末灯鈔21の中頃に、「仏の誓を聞きはじむる人々の………」と同じ言葉を言われた後「かく聞きてのち、仏を信ぜんと思う心深くなりぬるには………」と続きます。このことから「仏の御ちかいをききはじめしより」とは、阿弥陀仏に救われて後のことではありません。
煩悩具足の凡夫であることには変わりませんが、三毒ばかりで仏とも法とも知らず考えなかった人が、仏法を聞くようになるといわれているところです。
コメントの前の文章から引用します。

もとは無明の酒に酔いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好み召しおうて候いつるに、仏の御ちかいを聞きはじめしより、無明の酔もようよう少しずつ好まずして、阿弥陀仏の薬を常にこのみ召す身となりて(末灯鈔)

もとは無明の酒に酔い、欲、怒り、愚痴の三毒を好んでいた者が、仏法を聞き始めてより、無明の酔いも少しずつさめ、三毒を好まず、阿弥陀仏の薬を常にこのむような身となると言われています。
金ばかりに関心があった人が、金より弥陀の本願を大事に思う心になってきたからといって、煩悩が減ったのではありません。
三毒ばかりを好んでいた者が、仏法に心を向けていくようになったと言うことであって、煩悩が減ったのではありません。
阿弥陀仏の本願と煩悩は別物ですから、阿弥陀仏の本願を求めるようになったからといって、煩悩が抑えられるものでもありません。

「煩悩は何も変化しません。」の状態から、往生・成仏の瞬間に、煩悩は無くなる、ということでしょうか?
凡夫から獲信を経て臨終・往生・成仏のあいだで、煩悩がどうなるのかが、素朴な疑問です。(同)

弥陀の浄土に往生し、成仏するときに煩悩は無くなります。
獲信しても、煩悩具足の凡夫は、煩悩具足の凡夫です。臨終の一念にいたるまで、煩悩はとどまらず消えず、たえずなのです。
親鸞聖人が正信偈に

不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして涅槃を得)

といわれているとおりです。煩悩を断ちきらないまま、正定聚の数に入るのです。

救われたら煩悩はどうなるかについては、解説をしましたが、質問さんが、ただ今弥陀に救われればわかることです。
ただ今阿弥陀仏に救われてください。