質問箱には以下のように書きました。
「聞こう」とした先に聞こえるのではありません。
南無阿弥陀仏は最初から「たのめ助ける」と仰せです。私に「聞こう」とする力はなくても、呼んでくださっています。
これに加えて書きます。
このように思われる気持ちはよく分かります。
南無阿弥陀仏が「我をたのめ、必ず助ける」であると聞いていても、やはり「文字」にしか見えず、「言葉の意味」はそうかもしれないけれども、「実際に助かる」とは思えません。
私は以前、頑張って聞いて行った先に、ただの文字にしか見えない南無阿弥陀仏の真理に到達するのではないかと思っていました。しかし、頑張って地面を掘って宝を掘り当てるような聞き方は間違いです。それは、水脈のないところで井戸を掘るようなものです。掘っても掘っても求める水は出てきません。
「自力で『聞こう、聞こう』としている」というのは、そういう状態です。南無阿弥陀仏という「地面」を掘って「救い」という水を求めているようなものです。それは、「これまでの自分」では分からない「南無阿弥陀仏」を、「これからの努力」によって「文字に潜んだ真理」を掘り当てようとしています。これはどれだけ頑張っても、望んだ結果は得られません。
南無阿弥陀仏は、それ自体が私を救う働きです。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(顕浄土真実行文類 - WikiArc)
南無阿弥陀仏は称名となって私の口から称えられるます。南無阿弥陀仏という声は、南無阿弥陀仏そのものです。この南無阿弥陀仏が「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」なのです。いわゆる「言葉の裏」は、南無阿弥陀仏にはありません。「声の裏」もありません。
今この南無阿弥陀仏と称名念仏で現れてくださっているのが全てです。それ以外の「地面を掘った先にある水」のような南無阿弥陀仏はありません。
「我をたのめ、必ず助ける」と呼ばれているのが南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を「自分が考える何か」に落とし込もうとするのは自力です。それは捨てて、南無阿弥陀仏はそのままが南無阿弥陀仏であり私を助ける本願招喚の勅命と聞いて救われて下さい。