安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「助かる・助からないの結果は後からついてくる、もっと言うなら阿弥陀様が勝手にやってくれることなので、結果にこだわるのは止めよう。そんなことより、この身がある限りこの法を聞かせていただこう。これだけを心に生きていこうと思います。これで良いでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2017/09/24 19:06
お返事いただきありがとうございます。

もうどうやったら助かるのか、どうすれば助かるのか腐心し悩むのは止めようと思います。

だだ、「何があっても絶対に助けるぞ」と私に呼びかけてくれる、そんな存在があるというだけで充分だと思います。

助かる・助からないの結果は後からついてくる、もっと言うなら阿弥陀様が勝手にやってくれることなので、結果にこだわるのは止めよう。

そんなことより、この身がある限りこの法を聞かせていただこう。これだけを心に生きていこうと思います。
これで良いでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170918/1505688465#c1506247616

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
「どうすれば助かるのか」という手立てをあれこれ悩むのは止めようとのことですが、それはよいことだと思います。なぜなら、あれこれ悩んだところで「助かる手段」というものがないので、ないものを探しても見つからないからです。
以前は、それでも何かあるはずだと思われて、「あるはずなのに見つからない」ということで悩んでおられたんだと思いますが、止めるにこしたことはありません。

ただ、「助かる・助からないの結果は後からついてくる」に関しては、そうではありません。「助かる」というのを結果とすると、その結果はいまあるものです。後からついてくるものではありません。悩むのをやめた結果が、お助けであり、その結果は後からついてくるというのものではありません。

御文章の聖人一流章でいうと、

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ(御文章五帖目十通)

https://goo.gl/aA478m

ということです。もろもろの雑行をなげすててというのは、コメントの言葉でいうと「どうすれば助かるのか腐心し悩むのは止め」ることです。そうしてそのうち、一心に弥陀に帰命するのではありません。常に阿弥陀仏は助けると働いておられますので、あれこれ悩むのをやめるということは、そのまま一心に弥陀に帰命することになります。また、「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」のも、そのうちにあることではなく、一心に弥陀に帰命するままが、阿弥陀仏の方から浄土往生をただ今定めてくださいます。


お助けも、お救いも、後からついくるのではなくただ今のことです。自分で助かる手段について悩むのをやめられたのでしたら、お助けは目の前にすでに働いておられます。南無阿弥陀仏をただ今助ける法だと聞いて、ただ今救われてください。