安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願に疑いはないのですが、やはり死ぬのが怖いです…この気持ちを誰にも話せずにいます。」(頂いた質問)

少し前から、Peing−質問箱−というサービスを使い始めました。匿名で質問を受け付けるというものです。
これまでいくつか質問を頂いていましたが、twitterの延長のような気持ちで短文の回答を書いてきました。


やはりブログに書くくらいの分量で書いたほうがいいと思い、全部では有りませんがPeingに届いた質問をこれから当ブログに書いていきます。


その最初は以下のものです。

「本願に疑いはないのですが、やはり死ぬのが怖いです…この気持ちを誰にも話せずにいます。」

peing.net


死ぬのが怖いというのは、正直ないまの気持ちだと思いますが、それを誰にも話せないというのはどういうことかが気になるところです。


文面から拝察すると、この方はご自身が本願に疑い無いことを自分だけでなく、周りの人もご存知だという状況ではないかと思います。「死ぬのが怖い」と周りの人に言えないことが悩みとなっているということですが、ご自身も含めて周りの人は信心決定すると死ぬのが怖くなくなるのだと思っておられるのだと思います。


少し言い替えると、「死ぬのが怖い」というのがどういう意味で言われているのかによって話は変わってきます。
「死ぬことを喜べない」という言い方は、歎異抄や御文章に出てきます。

二つ紹介します。

また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。(歎異抄第9条)

これによりて法然聖人の御ことばにいはく、「浄土をねがふ行人は、病患を得てひとへにこれをたのしむ」(伝通記糅鈔)とこそ仰せられたり。しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもつておこらず。あさましき身なり。はづべし、かなしむべきものか。さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、いま一定のあひだ仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれざること間断なし。(御文章4帖13通)

質問された方の気持ちからすると「死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」といったところでしょうか。それについて歎異抄では「煩悩の所為なり」と書かれています。今まで慣れ親しんだ、この世界や自身の肉体に対しての執着は煩悩によるものなので、なくなるものではありません。


同様に御文章では、病気を喜ぶこころはまったく起きないと言われています。この病気とは、当時も死ぬこととつながっているので、死ぬことを喜ぶ心はまったくないと言われているのと同じ意味です。


自分と縁のある人と別れることが嬉しいという人はあまりいないと思います。そういった別離に対して喜べないことをさして「死ぬのが怖い」と言われるのであれば、それは人情として当然あることかと思います。


もちろん、こういう心が起きたから信心が間違っているとか正しいということは一概に言えません。ただ、本願に疑いがないのであれば、死んだ後どうなってしまうのだろうかという意味での「死ぬのが怖い」というのはありません。命が終われば、浄土往生を遂げさせて頂くのだけれども、自分の体や周りの人と離れたくないという気持ちは死ぬまであります。死ぬのが怖いというよりは、ただ「死んだらいろんな意味でいろんな人が困る」というものです。そういう意味で「死ぬのが怖い」と言われるでしたら、周りの人に言われたらいいと思います。


本当に本願に疑いないのであれば、1年後、5年後、あるいはもっと先に自分の心がどうなっていくのかを振り返ってみられたらいいと思います。