安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「18 摂取は六字なり」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

18 摂取は六字なり

 先年名古屋の或同行が、私へ申しますには。
 『これまで他力他力と聞かせ貰うておりましても、今迄の他力は誠に難儀の他力でありましたが、今度はいよいよ世話のいらない他力の味を頂かせて貰いました』。
と述べるので、さても驚いた尾張の名物は大根計りと思ったに。さすが中京だけありて難儀の他力という珍しいものが、名古屋にはあるかと感じたことがありました。
 
 さあ今日御集りの御方の中にも、この難儀の他力という御仲間はありませんか。純粋の他力に難儀のあろう筈はないのに、他力他力といい乍ら、心で難儀をしておるが、夫が自力の証拠です。
 
 
 独りで行くのが十九の願、是は仲々骨が折れます。
 親に連れられて行く形ちが二十の願、何の苦労はないようでも、連れられて行く分際では、まだ多少の世話もいります。
 しかし摂取心光と、親に負われて参る第十八願には、露微塵苦労のあろう筈がないのに。
 又してもたのむ一念がわからんの。信心がどうも頂けぬのと、難儀して御座るのは。夫が他力の届かぬ証拠でありますから、爰暫くたのむ手元の御話しはあとにして、頼まれたもう親様の他力の御手の届くまで、聞て聞て聞き明して頂きたい。
 
 
 其の他力の御手と申すは、因力果力本願力仏力のことで、是を我等に届けて下さるるが発願廻向。其発願廻向と御与え下さるるに付いて善根が善根の儘では届けられず、功徳が功徳の儘では与えられぬゆえ。さても易行の至極たる、名号六字に万善万行を封じこめ。いかな愚かな女人でも、受取り易い持ち易いように、御成就下されたが南無阿弥陀仏の廻向であることを、前席にくわしく御話し申しました。夫に付いて余りくどいようではあるが、私に二つの話しをさせて頂きたい。
 
 
 その一つは明治三十六年の春、越後三条別院の本堂再建中に於て。石材請負金の残額四百八十円を支払いましたところ。この金額は既に債権を譲渡せられてあったので、夫が問題となり諸橋某という債権者より、訴え出されたことがある。
 
 尤も是には別院に於ても、相当の理由があったので、黒白を法廷に争うことも出来たのじゃが。何分別院の住職は、宗制寺法に定められた通り、御法主が御住職で御座らせらるる為に。法廷に於ても御法主の名義で争わねばならぬが、いかにも残念である。殊にどちらが敗ても、御互に控訴するという場合になると。理に勝ても、費用に負るということは、随分世間に例のあることなれば。別院の役員初め、本山の重役も見えて、相談の結果。この金額は不法の請求としても、争わずして渡してやることに決定し、何月何日に支払う旨を、原告に通知してやりました。
 
 
 いよいよ当日となり其金額を支払う役が、其当時再建事務所に使われていた、私の方へ廻って来た。この坊主仲々の癖者で、現在二重払いをするこの金額、おめおめ渡すが、いかにも残念。何とか悪戯がしたくなり、先ず銀行へ金を引出しにゆき、銀行で持て余しておる銅貨四百五十円を、小使い二名に荷車を以って別院まで送らせた。尚三十円の不足は、一厘銭を縄に繋いだ別院の賽銭を以て是に充ることに用意調い、待つ間程なく原告の代理人として、某弁護士が見えました。早速対面所へ通し私は一応の挨拶をして、受領証は御持参ですかと尋ねたれば。
 
 彼は手鞄の中から、正式の受領証を差出した。私は夫を受取って、
「是で宜しい然らば金子を御渡し申します」
と、小使に命じて彼銅貨を運ばせた。封は切れる袋は破れる、ゴロゴロザクザク、座敷の一方に銅貨の山をなした。そこへ蛇を繋いだような一厘銭が三十束。是で四百八十円が揃いました、御改めの上御受取を願いますと突出せば。
 
 さすが弁護士も驚いて、
「是は誠に困りました、何卒紙幣と御引換を願われまいか」
とたのむので。
 私は大喝一声、
「それは出来ません、受取る彼方が困るより、支払うこの方は猶困る。不徳極まる原告の請求、御気の毒なは彼方の商売。金さえなれば何(いか)なる不徳の使いでも、厭わず御出下された、受取る金は重いはず。重いが厭で御座るなら、罪滅ぼしになるように、残らず寄付しておしまいなされ、遠慮なしに頂いて上(あげ)ましょう。私は是で御免を蒙ります」
と、其座を立ってしまいましたが。
 後に残された弁護士は、進退実にきわまって、泣く泣く小使に頼みいり。宿屋まで其金を運んで貰い、漸く仕末をつけたことがある。


 もう一つの御話しは、同じ三条別院で、明治四十三年の夏、御門蹟様の御駐錫中。いよいよ九月の十一日に、御遠忌志を完納するよう、駐錫事務所より仰せ出された。そこで各受持員も夫々奔走奨励したが。私も其一員に加えられ、某地方を受持って九月十日の夜迄に三千五百円計り集まった。
 
 紙幣の種類も数々で、殊に厄介なのは銀貨雑貨が三百円余りある。是には殆ど閉口して、某銀行に頼みいり集金残らず為替手形にして貰い。是を懐中して十一日の昼頃ゆうゆう別院へ帰って見れば。駐錫事務所の司計さんの前に、各納金者が黒山の如く立ちかかっておる。
 
 司計さんも目のまわる程難儀して御座る、何分雑貨取混幾千円づつ持参して来ている勘定が、一人すむにも容易でない。
 そこへ私も飛出して、司計さん私の納金も願いますといえば。
「君は午後にして貰いたい、何分この混雑では仕方がない」
という。
「いや私の納金は、左様に面倒はいらぬのじゃ、唯是一枚です」
と為替手形を差出せば。
「夫なら早速受取ってあげましょう」
と、人先納金を済ませたことがある。


 つまらぬ話しで皆様を退屈させ申して、御気の毒でありますが。ここらで篤と味おうて見て下され、訴え出しても取らねばならぬと、鬼になってかかって来た御客でも。銅貨計りで渡されては、僅か四百か五百でも、勘定するのに日が暮て、持も運びもならばこそ。


 然るに阿弥陀如来は、五百や千の話しでない、万善万行無量の功徳を。一つ一つに御渡し下されては、百千万年懸りても、我等はとても頂くことは出来まいに。幾千円の大金でも為替にすれば、いかに混雑の場合でも、受取り渡しは直ぐ出来る。不可称不可説不可思議の量り知られぬ功徳でも、聞き得る信の一念に、煩悩具足の我々が受取り損じのないように、御成就下されたが六字の為替の廻向である。
 
 
 ここに一つの心配は、折角あなたの身代を六字の為替に成就して、発願廻向と御与えに預っても。頂く我等が散乱麁動(そどう)の放逸者であるゆえに、頂いて見ても忽ち振捨て仕もうたり、失うて仕もうようなことでは何度与えても所詮がない。
 
 
 何卒一度与えたら、決して失わぬように、衆生に持たせておきたいものであるが。しかし散乱放逸の衆生に、持っておれとは甚だ無茶じゃ、是は弥陀が落さぬように、持っていてやるより外に道はないと思召し。彼尊の光明摂取の御力用(おはたらき)を六字の中に封じこめ。聞かせて与えた御六字で、離さず逃がさず摂取して、捨てざる力があればこそ、阿弥陀と名けたてまつる手足や身体で抱ことならぬ、可愛衆生を我弥陀は、名を以て物を摂すとあるからは。
 
 
 聞いた我等は忘れても、聞こえた六字は油断なく。護りどおしであればこそ。懈怠にくらす下からも、信行共にうるわしく。相続の出来る有り様は、南無阿弥陀仏の御力である。

続きはこちらです。
以名摂物録(松澤祐然述)「19 光明は六字なり」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録