前回の続きです。
3 受け心の詮議は無用
引き続いてお話しをさせて頂きますが、浄土真宗は御助けを向こうにかざっておいてたのむのではない。御助けを此方へ貰いうけたままが信心というのである事は、大略お話しを致しました。そこでその御助けを受け取った、受け心、貰い心、落ち着き心、安堵のしぶりというところに、多くの人が難儀して、教える人も、どう受けられた、どう落ちついたと受け心に力を入れて勧めらるるで。頂く人も、信じぶり、たのみぶりに苦心をして、何年聞いても安堵しかねてござる御方が世間に沢山あるように見受けらるる。これも何ぞの角違いをしているもきに相違ないことである。
全体受け心というものは、そのように面倒のいるものであろうか。稽古して心配して出来た心地なら、受け心ではなくて出し心といわねばならぬ。火に触れば熱いと思うが受け心、砂糖をなめれば甘いと思うも受け心、この熱いの思い、甘いの思いは親から何遍も教えられたり、、先生から幾度も直してもらって漸うできる思いではない。火に触れば熱いの思いは只起こる。只起こるのを自然という。自然がすなわち他力である。然るに信心安心の問題になると、他力他力といいながら、他力自然の形はなくて受け心の吟味にかかり、世話や心配のやまぬのはたしかに自力の証拠である。
続きはこちら→以名摂物録(松澤祐然述)「4 受け心と受けた品」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
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- 作者: 松沢祐然
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- 発売日: 1918/01/01
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