安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏を聞いているのが信心と以前のエントリーで読みました。現在、南無阿弥陀仏と称えて聞いていますが、それは以前からしていることです。聞いているけれど、聞き受けていないということでしょうか?」(頂いた質問)

南無阿弥陀仏を聞いているのが信心と以前のエントリーで読みました。現在、南無阿弥陀仏と称えて聞いていますが、それは以前からしていることです。聞いているけれど、聞き受けていないということでしょうか?(頂いた質問)

南無阿弥陀仏を聞いて、私を助けるとの阿弥陀如来の仰せであると聞いて疑い無いことを信心と言います。それは以前のエントリーでも書きました。

そこで、質問された方は「南無阿弥陀仏と自分で称えているし、また聞いているのは以前からもそうしてきたけれども、これがしんじんなのでしょうか?」と疑問を起こされたということです。

こういう疑問を起こされるということは、南無阿弥陀仏のいわれも聞いておられることだと思います。ただ、聞いているけれどそれがどうしたのだろうかと、頭でいろいろと考えられているのだと思います。


それは、聞いているけれども信ではないということです。いわゆる「聞即信」ではない「きいた」の状態だということです。


それについて御一代記聞書に以下のご文があります。

一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔・末意)と候ふを、え存ぜず候ふよし申しあげ候ふところに、仰せに、ききわけてえ信ぜぬもののことなりと仰せられ候ひき。 (御一代記聞書9)
現代語
 「『安心決定鈔』に、<他力の救いを長い間わが身に受けながら、役に立たない自力に執着して、むなしく迷いの世界をめぐり続けてきたのである>とあるのがどうもわかりません」と申しあげたところ、蓮如上人は、「これは、他力の救いを頭で理解しただけで、信じることのできないものをいうのである」と仰せになりました。

http://goo.gl/zP1IeH

南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、それを手元で分析しなにかを「ことば以上のもの」を見つけようとあれこれ頭で考えているのを「ききわけてえ信ぜぬもの」と言われています。


南無阿弥陀仏は言葉となって私の上に現れてくださった本願力回向のお働きそのものであり、阿弥陀如来そのものです。ですから、「ただ今お前を助ける」の仰せに足すものも引くものもありません。隠された意味もありません。


南無阿弥陀仏をそのまま聞けば、私が助かるの信心となります。聞いたままが信心とはそういうことです。よくよく法を聞くということは、聞いて自分の手元で法をもてあそぶことではありません。聞いたままを聞いて、ただ今助けるの仰せをただ今助かると聞いてください。ただ今救われます。