安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定すれば、「本当の幸せ(とある団体では絶対の幸福)」になれると思うのは間違いでしょうか?(頂いた質問)

書評6「なぜ生きる2」(高森顕徹〔宗教法人浄土真宗親鸞会会長〕著 1万年堂出版)第3章について - 親鸞会を脱会した人(したい人)へを読まれた方から頂いた質問です。内容からして、こちらにエントリーとして書きます。

信心決定すれば、「本当の幸せ(とある団体では絶対の幸福)」になれると思うのは間違いでしょうか?(頂いた質問)

確かに、信心決定すれば(阿弥陀仏に救われれば)、現生十種の利益を獲ると親鸞聖人はいわれています。しかし、現世利益を与えるのが阿弥陀仏の救いだと思うのは間違いです。


それについては、存覚上人の持名鈔に書かれています。いわゆる、米と藁の譬です。米を出離生死にたとえられ、今生の利益を藁に例えられています。

まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩経 』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成就すべきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひ とありて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いでき ぬれば、藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは稲を得ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をば得ずとなり。(持名鈔)

http://goo.gl/4wTlNP

(大意)
「こころから浄土往生を願うひとは、この念仏を現世利益のためのものとは思ってはならない。ただ一筋に、生死をはなれるための南無阿弥陀仏をたのめば、私がどうこうおもったからではなく現世利益もやってくるのである。このために「藁幹喩経 」というお経の中に、信心決定して仏になれる身になれば、現世利益もかなうことを、一つの譬で言われています。それは「例えば、タネを蒔いて稲を求める人がいるとする。全くその人は藁を求めてタネを蒔いたわけではないけれども、稲を求める人は、また同時に藁を獲る。そのように、後生浄土往生を願う人は、稲を求めて藁を獲るように現世利益もついてくるのである。しかし藁を第一目的にしていては稲がえられないように、現世利益ばかりを目的にする人は必ずしも生死を離れて、浄土往生することはできないのである。



これについて、同様のことを蓮如上人は帖外御文章に言われています。

今生をいのる人はわらをばかりえたるがごとし。といへるこころなり。されば信心決定したる人は今生も別してこのまず、ながはざれども、諸仏菩薩諸天善神の加護にあづかるあひだ(帖外御文章32通)

いろいろなことで「なぜ生きる」と考えることは大事なことだと思います。しかし、「なぜ生きる」と思うそもそもの根本が、「こんなに苦しいのに」というだけに留まる話であるならば「こんんなに苦しいこと」を解消することを目的としてしまいます。それこそ「藁」を求めて「米」を求めないことになります。

ただいま浄土往生する身に救うというのが、阿弥陀仏の本願です。ただ救うの南無阿弥陀仏の仰せを聞いて、ただ今救われてください。

参照

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版