安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「浄土真宗の教えは教えを聞いて「金が儲かる」「病気が治る」「長生きする」というような新興宗教が言うような現世利益が無い教えであると理解しております。そうすると浄土和讃にある現世利益和讃が少し引っかかります。(園児さんのコメントより)

園児 2018/10/15 00:08
こんにちは
いつもご説法ありがとうございます。浄土真宗の教えは教えを聞いて
「金が儲かる」「病気が治る」「長生きする」
というような新興宗教が言うような現世利益が無い教えであると理解しております。
そうすると浄土和讃にある現世利益和讃が少し引っかかります。

「阿弥陀如来来化して
息災延命のためにとて
 『金光明』の「寿量品」
 ときおきたまへるみのりなり」
「南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ」
などは「寿命が延びる」「早死にを防ぐ」ととらえることができるように受け取れますし
「山家の伝教大師は
 国土人民をあはれみて
 七難消滅の誦文には
 南無阿弥陀仏をとなふべし」
は国家の平和や災害を防ぐために念仏を「祈祷」に近いように称えるように思えます。

親鸞聖人が新興宗教のような現世利益を説くことはあり得ないと思いますが、和讃の解説書を拝見しても利益を肯定しているようにみえます。これらのご和讃の正しい理解をご教示いただければと思います。よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181014/1539459506#c1539529734

現世利益の意味について、最初に浄土真宗辞典から引用します。

○現世利益の意味

げんぜりやく 現世利益
現世において得る利益のこと。浄土真宗では仏・菩薩などへの祈願・祈祷によって現世利益を求めることを否定するが、他力信心の行者は現生正定聚などの利益を得るとする。(浄土真宗辞典


ここでも言われますように、現世利益とは仏・菩薩への祈願・祈祷によって得られる利益を一般にいいます。現世でさとりをひらくことも否定されますが、現生正定聚に入ると親鸞聖人は言われています。

煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。
この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり。(入出二門偈)

https://bit.ly/2EneSpN


正定聚に入るといっても、それは往生定まる身になることで、「正定聚といわれるさとりをひらく」ことではありません。しかし、その信心さだまったその信心の徳についていえば凡夫ではないといわれています。



実際問題として、正定聚のさとりを開いている訳ではないので、信心獲得した人が「私は正定聚になった」とか「私はすでに凡夫ではない」と確信するようなことはありません。南無阿弥陀仏は、私を浄土に往生させ仏にしてみせるとよびかけて下さっていることを聞いて疑い無いだけです。ただ、その常によびかけ働き掛けられている南無阿弥陀仏の徳から言えば、「仏に成るに定まる」と言う点で正定聚の位の人と同じような身にさせて頂いているということです。この現世で仏に成るに定まるというのが、最も親鸞聖人が重きをおいておられたところです。その意味での「現生正定聚」です。



○現実問題と信心の徳
そういう意味で、親鸞聖人がいわれた「現世利益和讃」に書かれていることは、「現実問題(第三者的にみても)そうなるのか」ということと「信心の徳(南無阿弥陀仏の徳)から言えばそうなる」ということを分けて見ないと誤解をすると思います。

そこで、園児さんのコメントに書かれた和讃を見ていきます。

(96)
阿弥陀如来来化して
 息災延命のためにとて
 『金光明』の「寿量品」
 ときおきたまへるみのりなり」
(99)
南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ(現世利益和讃)

https://bit.ly/2NN5U4E

これは、コメントにもあるように、長生きできるようになると読めますし、そう書かれています。
ただ、先ほど書きましたように「信心獲得した人は本当に長生きするのか」ということを聞くと、「現実問題」としては検証のしようがありません。なぜなら、同一人物が信心獲得した場合と、そうでない場合の寿命を測定することはできないからです。また、信心獲得した人5000人と、そうでない人5000人の平均寿命をとるということもできません。理由は、「信心獲得した」という人の認定が第三者的には不可能だからです。


○長生きをどう定義するか
さらに言えば、「あの人は100歳まで生きたのに、私は70歳だった、日本人の平均より低いから長生き出来なかった」といっても、本来はその人が50歳までしか生きられなかったのだといってしまうと何も言えなくなってしまいます。
このように「現実問題」としての現世利益を、一般の感覚で考えるとそもそもとして証明ができないことばかりです。


もちろん、親鸞聖人が現世利益和讃で書かれていることは、「親鸞聖人の現実問題として実感したことだけ」を根拠として書かれているものではありません。すべて、経典はじめお聖教等に記されていることから書かれているものです。


そこで、上記のご和讃も、信心の徳という点から見ると不思議なことは書かれていません。
なぜなら、信心獲得の身になることは、現生正定聚の身になるということであり、浄土に往生して仏になる身に定まるということです。つまり、「死んだら終い」と思っていた凡夫が、「死んだら終い」ではなく無量寿の仏になる身にさだまったということです。その徳からいえば、一般に言う「長生き」という視点からは外れたものということになります。100歳まで生きても、生きなくても、無量寿の仏にするという南無阿弥陀仏の徳からいえば、いってしまえば何方でも変わらないということです。


○頂いた命ということ
つまり「実際問題(第三者的にわかる)」長生きは、計測できないし、それを問題にするのは私を知っている人の判断の問題です。「私の父親は長生きだった」「私の母親は早死にした」と、いわれたところで、信心獲得した人からすれば、信心の徳からすればたとえ何歳でこの命が終わっても「頂いた命」としかいいようがないので、それに長いとか短いというのもおかしなものです。必ず無量寿の仏になる身にして頂くのですから、一般的な意味では長生きさせて頂けるわけです。


○「七難消滅の誦文」について
次の和讃についてです。

(97)
山家の伝教大師は
 国土人民をあはれみて
 七難消滅の誦文には
 南無阿弥陀仏をとなふべし(現世利益和讃)

https://bit.ly/2ChTMWY


これは、事実として過去に嵯峨天皇から伝教大師に対して、病気や戦で世情が不安な時にこれをどうしたら鎮められるのかと尋ねたことがありました。それに対して伝教大師は、金光明経などによって念仏を勧められたことがあったことから書かれているものです。

嵯峨の天皇の御時、天下に日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづれの行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師(最澄)に勅問ありしかば、「七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず」とぞ申されける。(持名鈔)

https://bit.ly/2yjE1Mn


ここで伝教大師が勧められたのも、経典にもとづいての勧めです。この「金光明経」だけではなく、南無阿弥陀仏の功徳利益を褒め称える経典はいくつもあります。それだけ南無阿弥陀仏のお徳というのは大変有り難いものだからだといえます。


○現実問題として七難消滅のしたのか問題
そこで「現実問題として」この嵯峨天皇の時に七難消滅したのかということについては、検証しようがありません。その時代から現代にいたるまで、地震や水害、病気や戦争は絶えず起こっています。だからといって「これはウソだ」というのもまた、証明ができない問題です。それについて浄土真宗の門徒の間では、昔から「大難を小難にしていただいた」という言い方をしてきました。水害が起きても、「本当はもっと大きかったかもしれないのだ」といわれてしまうとなんとも言い様がなくなってしまいます。


それに対して、南無阿弥陀仏のお徳ということからいえば、金光明経にも記されていることなので、そのように受け取るということです。社会全体ということではなく、南無阿弥陀仏と聞いている一個人からすれば、いつ死んでもどんな目にあっても全く不思議はないものですから、それでも一日生きたらそれはお陰様というしかありません。


○まとめ
その意味で、南無阿弥陀仏のお徳とそれによって浄土に往生して仏になる身に定めていただいたことを、有り難く讃嘆されたのが現世利益和讃です。