安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「最近、「信心正因 称名報恩説」の解釈がそれぞれ違った意見を数人の先生から聞いて混乱しておりました。本来の「信心正因 称名報恩説」を安心問答で詳しくご解説して頂けないでしょうか。」(頂いた質問)

最近、「信心正因 称名報恩説」の解釈がそれぞれ違った意見を数人の先生から聞いて混乱しておりました。
申し訳ございませんが、本来の「信心正因 称名報恩説」を安心問答で詳しくご解説して頂けないでしょうか。
(頂いた質問)

信心正因 称名報恩の語義

元々の言葉の意味を浄土真宗辞典から引用します。

しんじんしょういん 信心正因
唯信正因ともいい、唯信独達をあらわす。浄土真宗における往生成仏の正しき因は信心一つであるということ。
(略)
称名正因などの異安心に対し、安心論題に「信心正因」が設けられている。

しょうみょうほうおん 称名報恩
『大経』第十八願には、信心と称名念仏とか誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ。
(略)
称名正因などの異安心に対して、安心論題に「称名報恩」が設けられている。

言葉の意味を見ると、現代からすれば「称名正因などの異安心」に対して、安心論題で規定されることによって、「信心正因 称名報恩」がより強調されるようになったことがわかります。

「称名正因」とは

ちなみに称名正因については、同じく浄土真宗辞典にはこう書かれています。

しょうみょうしょういん 称名正因
行者の口業である称名念仏を往生成仏の正因とする理解。口称正因の邪義などともいい、真宗では異安心とされる。その中でも信心の有無を論じないものを無信単称という。

信心正因 称名報恩説の背景

「信心正因称名報恩」が強調されるようになったのは、覚如上人に始まります。その後、蓮如上人の御文章で門徒の人に浸透していきました。

御文章で、繰り返し出てくるのは先の浄土真宗辞典にも紹介された「無信単称」に対するものであったと思われます。無信単称では、信心の有無は問題にせず、ただ口で称えることのみを強調します。

「ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきこと」

そのことを御文章では否定されています。

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。(御文章3帖目2通)

ただ御文章のこの部分だけを読むと、御文章の意味を取り違えてしまいます。
現代で言えば、発言の一部を切り取ってYoutubeのショート動画やTikTokで拡散されて思わぬ風評被害を受けるようなものです。
私は、親鸞会にいたころに「教学聖典」という短冊でこの部分だけを「切り取り」したものを暗記させられ、ほぼここしか頭に残っておりませんでした。

しかし、上記の御文章では、その直前はこの様に書かれています。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰(前に続く)
(同上)

ここでは、南無阿弥陀仏の六字について、南無とたのむ機と、たのむ衆生を摂取してくださる法で阿弥陀仏であるということを示されています。

無信単称に対して、南無阿弥陀仏には信ずる機と助ける法が一体になっていることを示されてそれを否定されています。いわゆる機法一体の南無阿弥陀仏であると書かれています。

ただここで大事なのは称名念仏すること自体を否定的にいわれたものではないということです。
「念仏称えても助からない」といわれているのではなく、「念仏といってもそれは信も行も一つになっているものだという前提を知らなければ間違うのだ」と戒められたものです。

信心と称名の関係について

浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版補注にはこう書かれています。

10大行・真実行
もともと、信心、称名といっても名号の活動相のほかになく、衆生は、称えているまま能称を忘れて無礙光如来の名義を聞き、本願招喚の勅命を聞信しているのである。それを「称名即名号」、「信心即名号」、「称名即信心」といい、このように信心、称名の全体が名号大行の活動相であるというのが「行巻」のあらわすところである。「信巻」は、この法体大行が衆生の上に届いて大信となり、衆生の往生成仏の正因となっていくという機受の要義をあらわすのであって、行と信は、法と機の関係にあるのである。

「信心正因称名報恩」といっても、その「信心」も「称名」も別のものではありません。南無阿弥陀仏の働いておられるすがたです。
ここでも書かれていますが、称えるまま本願招喚の勅命を疑いなく聞いているすがたが、信心と称名の関係です。

その南無阿弥陀仏を聞いて疑いないところに、それが往生成仏の正因となります。そこでは、信心と称名を分けていうことはできません。

11大信・真実信
(略)信心とは信楽ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の名号を領受した心をいう。それは大行である名号のはたらきが衆生に正しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」(信巻・本)といわれている。これを信心正因という。

ここでも、信心正因といっても「大行である名号のはたらきが衆生に正しく至り届いたすがた」といわれます。では、大行とはなにかといわれれば、南無阿弥陀仏のはたらきですが、私の上では南無阿弥陀仏ののいわれにかなった通りの称名です。

大行と大信が法と機の関係にあっても別々のものではないとあるように、「信心正因」といわれる「信心」も「称名報恩」といわれる「称名」も別のものではありません。


「信心正因称名報恩」は時系列で言われたもの。

往生成仏することは「いつ」定まるのかという「時間」でいれば「信心定まる時」となります。
往生成仏は「何によって定まるのですか」という「はたらき」についてはいれば「大行(南無阿弥陀仏)」という「法」によって定まるとなります。これには「時間」と言うのもがありません。なぜなら「法」は、いつでもどこでも働いているからです。


「信心正因」または信心の強調というのは、御文章においては「平生業成」の強調からきています。「平生」とは、「いま」のことですから、時間の話になります。時間の強調をすると「信心定まる時に往生が定まるのだ」という信心正因が前面になります。


そうすると、信心定まった後も命が延びればその信心はどうなるのかといれば、称名となって私の上にあらわれて下さるのだとするものです。なぜなら、先に紹介しましたが、信心も称名も別々のものではないからです。


ただ、信心定まった一念の後の称名には、私の方からは「ただ称え聞くばかり」というものでしかありません。その上では感謝の思いで称えるものです。しかし、阿弥陀仏の方からいえば、常に私に働き続ける往生成仏の働きです。信心が相続するというのは、念仏の相続によって具体的には私の上にあらわれて下さるものです。

「時間」にだけ囚われると、「信心」も見失う

「信心正因」とだけ聞いてきた私は、とにかく「信心」ということだけを求めていました。その「信心」が何なのかは分からずとにかく「信心」が欲しかったのです。
しかし、「信心」といっても阿弥陀仏の本願には「信心と称名」が誓われているので、「称名抜きの信心」というのはあり得ません。
「時間」だけで言えば「信心定まった一念で往生は定まる」訳ですが、「称名」がなければ「信」もまた成り立ちません。

まとめ

「信心正因 称名報恩説」は、本願寺派では大事な教えで、これ自体が間違いではありません。ただ、「これ以外に浄土真宗はない」とまではいえません。あくまで、「いつ」という時系列的な観点から信心と称名の関係を「説明」したものです。前述したように、「何のはたらきよって往生は定まるのか」という働きについては、この漢字八字では説明されていません。

蓮如上人の時代には、「称名による救い」が多くの人にとって常識になっていたのだと思います。その環境で、「いつ」往生が定まるのかということを強調されたのが「信心正因称名報恩説」でした。

現代は、「称名による救い」と言ってもそれを信じない人も多いので、そこで「信心正因称名報恩」とだけ聞くと、以前の私のように称名と無関係な信心を探し、称名はお礼で称えためのマナーとしての言葉のように思ってしまいます。
そういう意味では、注意しなければならない言葉だと思います。