安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏にさせられているということについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

某箇所に、
「自分の行動も弥陀のお計らいと受けとるところに味噌がある
つまり実際には救いに自己は関与しているということ。(それぞれ個体差がでる)」
とありました。私もそのように思うことがあるのですがどうなのでしょうか?
救いについては自分が何をしようがそれも阿弥陀仏にさせられていることであって、私がやっていると思ったとしてもそれは救いに関係することは実際はすべて阿弥陀仏がされていることであって、私がやっているのではないということなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100105/1262693563#c1262709432

回答します。私のすることがあるのかないのかについて、阿弥陀仏に救われるまでは自分ですべてやっているように思いますが、救われてみるとお計らいと知らされるところです。

「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。(御消息

自然の「自ら」とは、行者の計らいではないので、「然」は、しからしむということで、私の計らいではなく阿弥陀仏の計らいと言うことですから法爾といいます。阿弥陀仏の誓いに計らわれるということです。

念仏を称えさせていただくことがあると思いますが、これも阿弥陀仏の願力によって称えさせられているものです。称えた念仏をあてにする自力の計らい心があるかないかの違いはあっても、称えること自体は阿弥陀仏のお計らいによるものです。

このいろいろと計らう心が、人によって違うのですからそれは個々人のものには違いはありません。阿弥陀仏の方から、私を助けようと阿弥陀仏自らがあれこれ計らって下されることを、私が計らっているのです。
阿弥陀仏が私を助けようと計らわれることがなければ、私が本願を計らうことはありませんので、そういう意味で言えば全部阿弥陀仏のお計らいによるものです。

阿弥陀仏に救われる前はなぜそのように思えないかと言えば、阿弥陀仏が計らわれるより先に自分が、「助かろう」「助けてもらおう」と下ごしらえをして、迎えるように思っているからです。

今年も、年が明けて6日になりますが、年末にはあちらこちらで新年を迎える準備をしていました。1月1日の0時0分を、カウントダウンして迎える人もありました。1月1日は、どれだけ頑張っても12月31日が終わらねばやってきませんので、先回りしてみな準備をします。カウントダウンも、間違いなく時計が、23:59:59の次に、0:00:00と刻むからできるのです。
新年を迎えるように、阿弥陀仏の救いも私が準備した後にやってくるのではありません。自分の方が先と思えば、自分があれこれ準備をすることができますが、「助かろう」も「助けてもらおう」も、実際は阿弥陀仏のお計らいが先にあるから出てくる心です。
現在計らっていること自体が、阿弥陀仏の本願力があった上でのことです。私が単独で起こした心では無いと言うことです。

すべて阿弥陀仏のお計らいというのは、横着を勧めているのではありません。私が本願を計らう心も、本願が先に働いておられるから出てくる心であるという意味です。
その上で私がいろいろと思ったりやったりしているのです。

先手の本願ですから、阿弥陀仏の本願力が先なのです。自分が先手と思わずに、阿弥陀仏の本願に救われて下さい。