安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

難信だからと思案をするより聞くのが早い(頂いた質問)

難中之難と聞いているから、阿弥陀仏に救われるのは大変難しいことではないかと思います(頂いた質問)

確かに、大無量寿経、正信偈にも「難中之難」と仰っています。しかし、難しいのだろう、難しそうだ、やっぱり無理だろうと考えるものではありません。

一 凡夫の身にて後生たすかることは、ただ易きとばかり思へり。「難中之難」(大経・下)とあれば、堅くおこしがたき信なれども、仏智より得やすく成就したまふことなり。「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきにあらず」(執持鈔・二)といへり。(御一代記聞書・註釈版聖典では152番目)

凡夫が後生助かることはただ易きことと思いなさいといわれています。阿弥陀仏の方から回向される信心だからです。
その理由として、執持鈔のお言葉が引用されています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。(執持鈔2・註釈版聖典P860)

浄土往生ほどの一大事ですから、凡夫であれこれ考えたところでわかることでも解決できることでもありません。一筋に阿弥陀如来にまかせなさいといわれています。
「行こう行けぬの思案はやめて 石の立ちたる道教え」という歌もあります。旅でも行ったことのないところに行こうとするとき、また道がいくつも分かれているときは、あっちへ行けばいけるだろうか、こっちへ行けばいけるだろうかと悩みます。しかし、そんな思案はやめて道しるべに従っていくしかありません。

往生については、阿弥陀如来が一心正念にしてただちに来たれと、道を示して呼び続けられています。どの道をどう行ったらいけるだろうかという思案はやめにして、阿弥陀仏の仰せに従っていくのが、信心です。
難信だからより思案をしなさいではなく、難信だから如来にまかせるのです。