安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

名号不思議の海水に入ってください(おしゃまさんのコメント)

おしゃまさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

以前から、よくわからないことがあります。
「信心決定することは、棚から落ちて来るボタモチを自分が食べるんじゃなくて、
 自分がボタモチになって、阿弥陀様に食べられるということ。」という言葉です。

この“私の心に信楽があらわれるというよりも大変広い阿弥陀如来の信心の海に入るのです。”という言葉は、“自分がボタモチになって、阿弥陀様に食べられるということ”と同じ意味ですね?(おしゃまさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100420/1271718699#c

同じ意味です。
ボタモチのたとえは、聞いたことがあります。
ボタモチを私が食べるように、私が南無阿弥陀仏を自分の体内に入れてしまうのではありません。南無阿弥陀仏の中に私が入っていくのです。
親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の功徳の果てしないことを海にたとえられます。海を自分のものにすることはできませんので、海には入るという言い方をされます。

功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。(正信偈)

名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり(高僧和讃41)

(大意)
南無阿弥陀仏の名号の海水には逆謗の人も信心の行者となりその屍骸がとどまらない。
万川が海に入れば一味の海水になるように、よろずの悪人も他力の信心をうれば、仏の功徳と一味になる。

ここで衆悪の万川といわれたのは「よろづの悪をよろづの川にたとへたり」(左訓)とあります。数限りない悪を造った者を川にたとえられています。
海は川が流れ込むところです。川に海が入ってくるのではありません。

ですから、南無阿弥陀仏を私のものにしようとしても、手に入るような大きさでも深さでもありません。それは、川が海を引き入れようとしているものです。

名号不思議の海水に、ただ今入って救われて下さい。