安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の大慈悲は、自己犠牲の精神ではありません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございます。

(中略)
自分が楽して生きれるならば、そこには誰か(自分を支えてくれている人、親や兄弟や友人や地域の人や先生や上司や部下や諸々の・・)の犠牲(御恩)があるのだと思います。
ただ助けたいというありがたいお話、そんな結構なお話は信じられない事です。
実際救われなければどうしようもないです。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

回答します。
阿弥陀仏の大慈悲とは、犠牲の心ではありません。
犠牲とは、有る目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげることをいいます。
阿弥陀仏の大慈悲心からすれば、大切なことは、私を助けることであって、それ以外のことはありません。犠牲と言うことであれば、阿弥陀仏にとって私を助けること以外に大事な事があるけれど、私を助けるためにそれを失って(犠牲にして)五劫思惟され、兆載永劫の修行をされたということになります。
ただ衆生を助けたいより他にないのが、仏心ですから。「仏心とは大慈悲これなり」といわれます。そんなことは世の中にないから「超世の悲願」と親鸞聖人もいわれるのです。
私を助けるための大変なご苦労をされたのが阿弥陀仏ですが、何かを犠牲にされた上のご苦労ではありません。私を助けるためのご苦労は、ご苦労とは思われないから大慈悲心なのです。なんとか浄土往生させてやりたい以外にありません。

この世の事でも、本当に心配するなら必ず行動となって表れるし、実行のない心配は嘘だと思います。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

阿弥陀仏が私を助けたいという願いは、ただの願いではありません。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻・往生論註引文

願いに基づく力があり、力をなりたたせる願が成就している。阿弥陀仏の本願は、実際の力(行動)とならずに無駄に終わるものでもなく、その力(行動)は私を助けることのないもの(虚設)でもありません。私を助けるという願いと力がまったく違いなく一致したところに成就したものが願力であり、他力なのです。これを願力成就といいます。
ですから、間違いなく私を救ってくだされるのです。阿弥陀仏の願力は、所信表明や、未来に向けての宣言ではありません。願いと働きが成就しているものです。

阿弥陀様が、本当にずっとずっと昔から心配して下さっているのなら、そして救う力があるのならば、私は救われるでしょう。(maryさんのコメントより抜粋)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259796272

はい、必ず救われます。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

摂取してすてずといわれたのは、逃げるものを追いかけて救い取られるということです。阿弥陀仏の救いを信じられないものを、決して見捨てられません。どこどこまでもそういうものを追いかけて救われるのです。
「摂取してすてられない」ことを、阿弥陀仏という名前のいわれであるといわれています。阿弥陀仏は、ずっと働き続けておられます。うそはありませんから、摂取不捨の真言ともいわれます。
実際にはたらいておられるから実際に救われます。