安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私が○○だから救われない」のではありません(五十嵐さん、maryさんのコメントより)

五十嵐さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀さまは端から端まで私の事で一杯なのですね。(五十嵐さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091117/1258409017#c1258474994

阿弥陀仏は何のために成仏されてより常に働き続けなのかといえば、私一人を助けんがためです。

コメントを読んで、思ったことを、maryさんのコメントを通してエントリーします。

生きている間に本願を信じて後生をおまかせできるものなら、したいと願っています。
縁は十分に揃えて頂いているので、私が疑い深くて救われがたいという事なんだと思います。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091115/1258243358#c1258380507

救われない原因を私にもってくるというのは、ある意味あっていますが、ある意味間違ってしまいます。
と言いますのは、私が救われると言うことについては、全部阿弥陀仏のお力によるものだからです。
「私が悪いから」「私が自分の心を正しさえすれば」「私が疑い深いから救われないのだ」となりますと、「私が疑いを晴らせば救われるのだ」となってしまいます。

聖人一流の章には、もろもろの雑行を投げすてて、一心に弥陀に帰命しなさいといわれています。

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通・聖人一流

「雑行をすてて」だけではなく、「一心に弥陀に帰命」といわれ、さらに往生浄土が定まるのは「不可思議の願力として、仏のかたより」であると言われています。

私が疑いを晴らしたら、その条件として往生が定まるのならば、「仏のかたより」ではなく、「私のかたより」ということになってしまいます。
「私が疑いを晴らさない限り救われないのだから、ここは私が頑張らねばならないところだ」と、なりますと、「不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定」と反対の方向にいってしまいます。

ここは私の持ち分というのは、往生浄土に関しては一つもありません。持ち分としてかかえこんでいるものが何一つないから、「仏のかたより往生は治定」といわれるのです。
自分だけを責めずに、一心に弥陀に帰命して下さい。阿弥陀仏は私のことだけにかかりきりなのですから、必ず阿弥陀仏にただ今救われます。