安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏が回向されるのは切実な心ではありません(頂いた質問)

「たのむ人を助ける」という事ですが、たのむ心のない人はどうしようもないという事でしょうか?
助かりたいという心もないような人が、どうして助かるでしょうか?
助かりたいという切実な心を起こして下さるという事でしょうか?(頂いた質問)

回答します。
たのむ心のない私たちだから、たのむ心は阿弥陀仏があたえてくださるものです。

一 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこころも、たふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。(御一代記聞書

親鸞聖人のご和讃に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」というのは、阿弥陀仏の方から、たのむこころも、尊く有り難いと念仏するこころも、みな与えてくださるから、こうしたらああしたらと計らって念仏称えるのは、自力であるから嫌われるのだと仰いました。

どうしたら救われるのだろうかという「切実な心」は、自分でこしらえないと救われないというものではありません。そういう心がなければならないというのは、信心をつかもうとする心ですし、そうできると思う心です。

「切実な心」や「燃え立つ心」がないから、自分は助からないと思われる方もありますが、そうではありません。「切実な心」や「燃え立つ心」を回向すると阿弥陀仏はいわれていません。「真実信心の称名は 弥陀回向の法」と言われるように、阿弥陀仏をたのむ心、念仏申す心を差し向けてくださるのです。

まずは「切実な心を与えてから」その次に○○を与えて、というような、小出しにされる阿弥陀仏ではありません。南無阿弥陀仏をそのまま与えようとされるので、大慈悲心なのです。
阿弥陀仏の大慈悲によって、回向される南無阿弥陀仏に救われるか救われないかであって、切実な心になるかならないかではありません。
ただ今阿弥陀仏に救われますから、ただ今救われて下さい。