安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

もがくのも、もがかないのも方法論なので離れるのです(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「自力では助からないから自力を捨てなさい」と教えて戴いていますが、自力を捨てようとする心も自力であり、どれだけもがいても自力は自力で堂々巡りをするばかりです。
そしてその自力は阿弥陀仏によってのみ取り除かれると教えていただいています。阿弥陀仏に救われる為には自力を捨てようともがくことは無駄なのでしょうか。それともどれだけ「自力で自力は捨てることは出来ない」と言われても、「何とか自力を捨てよう。何とか何とか」という心のままで求めるのがこの道なのでしょうか。(MMAさんのコメント)※修正コメントにあわせて一部修正

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100211/1265886020#c1265944753

回答します。
自力を捨てようともがくことは、「無駄」という言い方はコメントの流れからすると言えないと思います。「無駄」ではなくて、もがくのも捨てて弥陀をたのめということです。
「無駄」というと、「無駄だからやらない方がよい」ということになります。そうなると、「もがかない方が早く救われる」ということになります。

ですから、次の選択肢の、「『何とか何とか』という心のままで求めるのでしょうか」とあわせて考えますと、今回の質問は以下のようになると思います。
「阿弥陀仏に救われるには、自力を捨てようともがいた方がよいでしょうか?もがかない方がよいでしょうか?」
この問いに対してまとめて回答しますと、どちらも間違いです。もがくかもがかないかは、どちらの自力に対する捨て方の問題で、阿弥陀仏をたのむ心にならないからです。
捨てるというのは、そこを離れるともいわれています。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。(唯信鈔文意)

阿弥陀仏の本願のお働きにまかせ自力を離れたのが信心であるといわれています。
自力を離れなければならないと、そこにばかり心がかかると、そこにとらわれて、上記のお言葉が
「自力を離れたる、これを「唯信」という」になってしまいます。
自力を捨てよとか、自力を離れると言うことは、本願他力をたのむことです。

「この道」とコメントされているように長いように思われるかも知れませんが、道ならただ今救われません。重荷を背負った状態で、どうやって進んだらよいかと考えられているのかも知れません。
弥陀をたのむとは、重荷と言う言葉を使うならば、阿弥陀仏に重荷をまかせることです。
コメントにあったので、引用させてもらいますと、お軽同行の言葉に

すまぬこゝろを すましにかゝりや
雑修自力とすてられゝ
すてゝ出かくりゃ なほ気がすまぬ
思えば有念 思わにゃ無念
どこにお慈悲があるのやら
(中略)
そのまま来いのお勅命
いかなるおかるも 頭がさがる
連れて行かうぞ 連れられましょぞと
往生は投げた投げた
(ZhengQingさんのコメントより抜粋、お軽同行の言葉)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100210/1265807426#c1265845881

長い道中を、これからどれだけ一人で行かねばならないのかと思われているのならば違います。「独り生まれ独り死し、独り去り独り来る(大無量寿経下巻)」と聞いて、この道は救われるまで独りなのだと思われているのかも知れませんが、そうではないのです。
往生極楽の道は、孤独ではありません。上記のお軽同行の言葉にあるように「連れて行こうぞ 連れられましょぞ」と阿弥陀仏は常に働いておられます。往生は自分で抱える荷物ではないのです。往生は投げた投げたです。弥陀にまかせて、連れて行こうぞの仰せに、連れられましょうと、ただ今すくわれてください。
阿弥陀仏はあきらめられません。