安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願を信じない者も弥陀に救われます(フーテンの虎さんのコメントより)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

さて、いま自分が感じている苦しみは、阿弥陀仏の本願に向かった時、現在ただいま信心決定すると向かった時、知らされた苦しみは「全然本願を信じていない自分」です。てこでも動こうとしない、今晩死んだらとつついても知らん顔している、のほほんとしている自分に泣かされました。しかもその心は続きませんでした。情けなくなりますが
今の自分です。こんな自分でも阿弥陀仏に救いとられることがあるでしょうか。よろしくお願い致します。
(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090211/1234309318#c1234409804

「本願を信じない私」が、「本願を信じるような私」に変化したのが信心決定ではありません。
そういう意味では「信じたから」救われるのではないのです。
真実信心とは、信じることではないからです。信じて救われるのならば、信じられない者は救われないと言うことになります。

他力の信心ということをば、今既に獲たり。これしかしながら、弥陀如来の御方より、授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり。
かるがゆえに、行者の発すところの信心に非ず。弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明かに知られたり。(御文章2帖目13通・御袖)

他力の信心は、今すでに獲たぞ、という信心です。阿弥陀如来から賜る信心と言うことが知らされます。ですから、私がおこす信心ではない、阿弥陀如来の他力の信心であると言うことが明らかに知らされるのです。

弥陀の救いを求めて、自分の心が見えてくると「驚かない自己」「本願を信じない私」が見えてくる人も多いと思います。しかし、その心を驚かそうと頑張るのは目的が違います。
確かに、フーテンの虎さんの言われるようにそういう自己の姿を知れば、情けなくもなります。泣くこともあるでしょう。しかし、そんな自己が、「どうにもならない」と嘆いても、弥陀の救いにあえるのではありません。それは自己を掘り下げるという行為であって、自力の心を捨てると言うことではないのです。

当流の安心の趣は、あながちにわが心の悪きをも、また妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず。(御文章1帖目3通・猟漁)

と蓮如上人が言われているとおりです。目指すべきは、信心決定、弥陀にただ今救われることで、驚かない自己を知ることでも無ければ、驚かない自己を驚かすことでもないのです。

自力の心一つが邪魔をしているのですから、その心一つが廃ればどんな人でも、本願を信じない者でも弥陀の正客です。
フーテンの虎さん、ただ今弥陀の救われることが必ずあります。
ただ今救われて頂きたいと思います。

「現在ただ今救われよう」という心を常に忘れないことが大事です。「いつか阿弥陀仏が発菩提心してくだされるだろう」では、その「いつか」は永遠に来ないと思ってください。

よこやりさんから質問を頂きました。

「逆の方向に真実がある」とは、どういうことですか?
具体的に書いて頂けると助かります。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090212/1234396073#c1234480244

これについては、次のエントリーで回答いたしますのでよろしくお願いいたします。