安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聞法求道に疲れてしまう理由を考える(フーテンの虎さんのコメント)

フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

聞き始めは、自分は死後の世界は存在すると信じていたので、この世でそれがはっきりするとお聞きし、また、後生の一大事があるぞ。この世で解決できなければ、大変なことになるぞ。
と教えられたので、今まで聞き求めてきました。しかし、今は疲れてしまい、どうでもいいという気持ちもあります。
また、本当に今死んで、後生の一大事が惹起すると怖いので早く解決したいという気持ちもあります。
しかし、本当の親鸞聖人のみ教えが説かれているのか、わからなくなりました。どうかよろしくお願いいたします。(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090824/1251116551#c1251119828

回答します。
今は疲れてしまったと言うことですが、本当にお疲れの事だと思います。
今まで聞いてきたことが、本当の親鸞聖人の教えだったのかと疑問を起こされるのは、尊いことだと思います。そのように思われるのも、教行信証をはじめ、御文章に書かれていることと、聞いていることと何か違うと思われての事だと思います。

ただ今救われない教えではありません

端的にいえば、「ただ今救われる教え、平生業成と聞いているけれど、何か相当大変時間がかかることのように思われる」ということではないかと思います。
ただ今救われない教えになっているとすれば、その教えは親鸞聖人の本当の教えではありません。

以前のエントリーでも書きましたが、「善をすれば、無常が知らされる、悪が知らされる」「本当の自己が知らされたとき救われる」というのは、話として聞いてはいても実感できる人はいないのではないかと思います。


自身の信仰の問題なのに、自分自身のコントロール感覚が感じられないと、どうしても疲れてきます。
何事も自分のためになると思えば、頑張ることもできますが、「自分のため」と思っていても、やっていることが本当に自分のためになっていると思えないところからくるのだと思います。聞いたとおりに実行をして、しかも自分自身になにも感じるところがないとすれば、どれだけ「救われる」と聞かされてもやる気を失います。

何かを犠牲にするのが聞法?

また疲れる原因は、「何かを犠牲にして求める」という感覚があるからだと思います。前回のエントリーにも書きましたが、真実信心は何かを犠牲にしなければ獲られないのではありません。
犠牲にすると言うのは、犠牲にしてなにかを阿弥陀仏に差し向けて助かるという発想です。しかし、阿弥陀仏の救いは、他力回向であり、私から差し向けたものと引き替えにあるものではありません。

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(正像末和讃)

阿弥陀如来が願を建てられた御心を案じてみますと、苦しみ悩むものを捨てられず、引き替えではなくただ与えるために名号を成就されたのです。

本当の親鸞聖人の教えは、何かを犠牲にするのでもなく、ただ今阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を受け取る一つで、往生浄土できる身に救われるという教えです。

救われなければ死後をどのようになるかという考えは別として、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。