安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「19願を進むのに必要」という言葉について

今日の御法話の内容は大部分が、遍照の光明、19、20願の話でした。しかも、九品の話のときに会員にも十通りあると言われ、会費によって会員を区別されているように聞こえました。
親鸞聖人は救われたあとの世界を強調されており、高森先生自身も親鸞聖人は九割り九部までが信後のことを教えられたと以前話された記憶があります。
今回のように、信前の求道ばかりが強調された御説法が多いのはなぜでしょうか?
(悲しい気持ちさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090131/1233359727#c1233499435

親鸞聖人のみ教えは、阿弥陀仏の本願の前にはすべての人は平等であると教えられ、「御同朋、御同行」の精神で貫かれています。

親鸞は弟子一人も持たず候(歎異抄6章)

と言われていることからも明らかです。法座に参詣し、弥陀の本願の救いを求める人があれば、それはすべて阿弥陀仏の光明のはたらきによるものであって、私の力でどうこうなったということはありません。
確かに会費の種別というのはあります。ただそれによって差別していいということではありません。
もう一つの件ですが、「信前の求道ばかりが強調」というのは、時間配分のことではないかと思っています。時間が十分あれば、話をされたのではないと思います。

質問ですが、会合で財施の話がでて、19願を進むのに必要だというようなことをいわれました。
(フーテンの虎さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090131/1233359727#c1233545850

こちらも同様に、私たちが仏法を聞きはじめ、聞法し、信心決定し弥陀の浄土に生まれる身になることは、すべて阿弥陀仏の願力のはたらきによるものです。
18願、19願、20願はすべて「阿弥陀仏の」願です。「私の」願ではありません。
財施が仏教でいわれる諸善万行の一つであると言うことと、19の願力に引かされて菩提心をおこされるということを、同じ事としていってしまうのは間違いです。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなおもまた
罪福深く信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)

阿弥陀仏を疑って、未だ信心決定してない身であっても、それでも阿弥陀仏は、私たちに因果の道理を信じさせ、廃悪修善の心を起こさせ(罪福深く信ぜしめ)、念仏称えさせて下されるのです。

これはすべて、阿弥陀仏が18願に、現在ただ今救うと誓われ、その18願になんとか引き入れようとたてられた19願の願力、20願の願力のはたらきを言われたものです。
19願も、20願も、すべて阿弥陀仏が建てられた願であり、目的は18願の救いにあわせるためです。
19願の願力で、進むも進まないも、すべて阿弥陀仏の願力のはたらきによるもであって、私がどうこうしたからということとは関係がありません。
布施をしましょうということはいいことです。財施も大事なことです。
ただ、それを19願の道を進むためといったらそれは間違いなのです。
「阿弥陀仏は19願で修諸功徳と誓われている。修諸功徳とは、もろもろの善を修めなさいということです」
ということと
「財施(善)をしましょう、19願の道を進むのに必要だ」
は、主語が「阿弥陀仏」と「私」で変わっています。
二つの言葉は同じでないかと思われるかもしれませんが、全く違うのです。