安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

神社の行事に参加する行為によって阿弥陀仏に助けてもらえなくなるのではありません(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。ほか、コメントを頂き有り難うございました。

自分ではないつもりでいても、鬼神の禍福を信じる心が奥底に深く大きく根付いているのではないでしょうか?
この迷った心は信心決定しても変わらない心ですか?往生とは関係ないということですか?
組長だったときも神社関係の集金を断り、角が立ちました。阿弥陀仏以外の神や仏との縁をなくそうとすると、人間関係にひびが入ることが多々あります。
でもそれは、親鸞聖人の教えなのではないでしょうか?諸仏や諸神の不拝を言われたから、流刑や死刑になられたのではないでしょうか?
親鸞聖人の教えの重要な部分と聞かされて、今日まで一番犠牲を払って守ってきた教えの部分なのです。今でもそう思っています。
往生と関係ないと書かれると???です。
神社主催の行事に参加してもよいのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090721/1248177361#c1248261799

回答します。
いろいろと質問がでていますが、整理しますと、3点になると思います。

  1. 親鸞聖人が、一向専念無量寿仏を強調されて、諸仏や諸神の不拝を教えられたことは、神社行事に参加してはならないということとイコールになるかならないか。
  2. 神社行事に参加する行為そのものはよいのか、悪いのか?
  3. 神社行事に参加する行為によって、往生浄土できなくなるのか。

では、順に解説をします。

1.親鸞聖人が、一向専念無量寿仏を強調されて、諸仏や諸神の不拝を教えられたことは、神社行事に参加してはならないということとイコールになるかならないか。

これについては、maryさんのコメントにもありますように、一向専念無量寿仏が親鸞聖人の教えです。

諸神や菩薩の不拝というのは、阿弥陀仏以外の、諸仏や、菩薩や諸神には私たちを浄土往生させる力がないのだから、「たのむな」ということです。
「粗末にせよ」「地獄の使いと思え」と言われたのではありません。

まづよろづの仏・菩薩をかろしめまいらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。
(中略)
よろづの仏・菩薩をあだに申さんは、ふかき御恩をしらず候べし。(御消息27通・法蔵館では御消息集4)

いろいろの、仏、菩薩、神を軽んじ粗末にすることは決してあってはならない。(中略)諸仏、菩薩をいい加減にするのは、深き御恩をしらないのだといわれています。
このことから、諸神や菩薩の不拝を強調されたということは、攻撃・誹謗されたということとは違うということがわかります。
問題は、心のことです。諸神や菩薩をたのむ心を捨てよといわれているのであって、行為そのものを問題にされてはいないのです。
もちろん、たのむ心があれば体にもあらわれますが、手を合わせないからといって、粗末にしたり、地獄のつかいと思っているのではありません。

もろもろの雑行をこのむ心を捨て、或はまた、物の忌わしく思う心をも捨て、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、其のほか余の仏・菩薩・諸神等にも心を懸けずして、ただ一筋に弥陀に帰して(御文章1帖目10通・吉崎)

ここでも雑行という行為を捨てよとか、物忌み(今で言えば日の善し悪しなど)という行為を捨てよとはいわれていません。
「もろもろの雑行をこのむ心を捨て」といわれ、「物の忌まわしく思う心」をも捨てよといわれているのです。そして、一心一向に弥陀をたのめと勧めておられます。
また、「余の仏・菩薩・諸神等にも心を懸けずして」といわれているように、ここでも「」を問題にしておられるのです。
神社の行事に参加したら、ご利益があるのでないか、早く阿弥陀仏にすくわれるのではないかと思うのは、「雑行をこのむ心」です。神棚を焼いたら、罰が当たって救われないのではないかと思うのは、「物の忌まわしく思う心」です。どちらも、自分の行為の善し悪しで、救われるとか罰が当たると思う心です。

2.神社行事に参加する行為そのものはよいのか、悪いのか?

これも行為そのものよりも心が問題なのです。
前述しましたように、この神社の行事に参加して浄土往生が早くできるのではないかとか、現世利益がいただけるのではないかという気持ちで行けば、これは捨てよと言われた雑行になります。
今回の質問でいえば、小学1年生の息子さんの場合ですから、息子さんがどういう気持ちで参加しているかによって変わってくるということです。

誰かが「ご利益がある」と信仰、礼拝しているものを、何も思わない人が見たり、その場所に行くこと自体が雑行といわれているのではないのです。
日本には、山岳信仰というのがあり、富士山や、立山、白山などが有名です。
それを知らない人が、富士山や、立山を見たら雑行になるのか、見たり登ったり、その前で記念撮影をしても雑行であるということにはなりません。

親鸞会の懇親会でも、富士山に登ったり、その前で記念撮影をしているではありませんか。信仰対象物を見たら、それに対してたのむ心がなくても雑行というのならば、富士山の前での記念写真も、神社の前の記念写真も変わりません。

それをたのまないという心が大事なのです。ご利益がある、往生の足しになるという心がなければ、そんな気持ちで手を合わせたりすることはないでしょう。
富士登山といえば、毎年1月1日はご来光といって、初日の出を拝む人たちもいます。1月1日に早起きをして朝日を見たら、みんな雑行なのでしょうか?
そうではありません。

また、太陽信仰というのも世界にはあります。そうなると、太陽は他宗教の神ということになってしまいますから、昨日の皆既日食を見て歓声をあげる人は雑行ということなのでしょうか?
そうではありません。やはり、心が一番大事だということです。

礼拝の対象に対して、ご利益を期待したり、往生の助けにする心が問題なのであって、行為だけを取り上げて良いか悪いかということはいえないのです。
心という点では、例え阿弥陀仏に向かっていても、現世利益をたのむものは、雑修といわれています。

仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらわるる(高僧和讃)

阿弥陀仏一仏にむかって念仏する人も、現世をいのれば雑修ときらわれるのだといわれています。
大事なのは心なのです。

3.神社行事に参加する行為によって、往生浄土できなくなるのか。


これは、前回も書きましたが、参加したという行為そのもので、往生浄土できなくなるのではありません。

「不拝」=「戒律」ではないのです。また、その戒律を守れないものは阿弥陀仏は助けないということでもありません。

末代われら如きの在家止住の身は、聖道諸宗の教に及ばねば、それを我がたのまず信ぜぬばかりなり。(御文章2帖目3通・神明三箇条)

蓮如上人がいわれているように、聖道仏教では助からないものだから、それをたのまない、信じないということなのです。ことさら誹謗せよとか、拝んだものは阿弥陀仏に助けてもらえなくなるから拝むなといわれているのではありません。

もちろん、助ける力がないものに手を合わせてご利益を祈る必要はないので、諸仏、菩薩、諸神を礼拝せよとは、親鸞聖人、蓮如上人は教えておられません。しかし、行為そのものによって往生出来なくなるからするなと言われたのではありません。

礼拝せよと勧めていない→不拝→粗末にせよ ということではないのです。
また
不拝→不拝をしないとすくわれないという条件付きの阿弥陀仏の救いということではありません。

最後に、親鸞聖人が神の不拝で流刑にあわれたというのは、「阿弥陀仏以外に助ける力のある仏も菩薩も神もない」という事の強調の結果です。
当時の時代は、信教の自由はもちろんありませんから、当時の諸仏、諸神以外のものを信仰したり、人に勧めるという行為そのもので流刑にあう結果になったのです。
「諸仏や菩薩や神を排斥せよ、と誹謗した結果」ではありません。

諸仏、菩薩、諸神を排斥せよと誹謗したのでは無い証拠に、現世利益和讃に念仏者を諸仏、菩薩、諸神がまもってくだされると書かれています。

天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり(現世利益和讃)

重ねて申し上げますが、神社の行事に参加した方が往生の助けになるとか、ご利益があるから行きなさいと勧めているのではありません。