安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分は助かる者」と思うのはなぜ悪いのか?

「自分は助かるもの」と思うのはなぜ悪いのでしょうか?

という質問をメールでうけましたので、回答いたします。

同様の質問を以前受けたことがあります。
「現在ただいま助かる」と思うならば、「自分は助かるもの」だと思わなければ、「現在助かろう」と思う心は起きないのではないでしょうかというおたずねでした。

「自分は助かる」というのは、「自分に助かる要素があるから助かる」と思うのではなく、「現在助ける本願があるから助かる」と思うのです。
煩悩具足の凡夫である私たちに、「助かる要素」というものはありません。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。(教行信証信巻)

清浄の心もなく、真実の心も無いのが私たちの姿です。

「本願」に助ける力があるというのは、まったく間違いありませんが、「私」に助かる要素があると思うのは迷いの心です。
助かる縁が、少しでもあるものならば、歎異鈔にも

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異鈔)

とはいわれません。

阿弥陀仏は、そういう「助かる縁の無いもの」と見抜いた上で本願をたてられているのですから、「自分に助かる要素がある」と思う心は、阿弥陀仏の本願に反する心です。
別の言葉で言うと、「阿弥陀仏を泣かせている」ということになります。
信心数え歌にもあるとおりで

一つ、必定地獄と聞きながら、うぬぼれ心にだまされて、堕つるこの機ということは、ほんに今まで知らなんだ。
(略)
八つ、益にも立たぬ雑行や、雑修自力は捨てもせで、弥陀仏なかせて居たことは、ほんに今まで知らなんだ。

「助かる要素がある」と思うのが、「うぬぼれ心」です。自分をよいものと思い、堕つる者と毛頭思えません。思えないから、本願をたのむこころがないのです。
その心があるから、自分のやった善根功徳をあてにして、弥陀の救いの足しにしようという心が働きます。その足しにしようという心を、雑行とか雑修自力と言われるのです。

だからといって、「自分は助からない者だ」と思い込もうというのもまた間違いです。
あくまでも、弥陀の本願(法)にむかっていくうえで、照らされて見せられる心です。自分で自分の心を見つめるということも、とても大事なことですが、弥陀の救いにむかうという大前提を忘れてしまえば、ただの瞑想、座禅と同じになってしまいます。


追記 2013/05/29

このエントリーからは、親鸞会を除名になった後のエントリーです。
2009/01/03に親鸞会を除名になりました。2008のエントリーに親鸞会よりなことを書いているのは、所属団体にいたためなのでご了承下さい。