安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏を頂こうとする心(メールより)

メールを頂きましたが、大事な内容なのでエントリーとして紹介します。

南無阿弥陀仏の偉大さ,功徳の大宝海,阿弥陀仏がものすごい修行を積み重ねられて完成された南無阿弥陀仏に思いを馳せる時,ものすごいギャップを感じてしまい,「私が本当になれるのだろうか」という心が出てきます。
しかもそんなすごい南無阿弥陀仏を私に与えようとされているというみ心を聞かせて頂くと,「そんなことがあるのだろうか」「本当に南無阿弥陀仏と一体になれるということがあるのだろうか」という心になります。南無阿弥陀仏を受け取りたいという気持ちと本当に届いてくれるのだろうかという気持ちがあります。(メールより)

南無阿弥陀仏は、私を浄土往生させるという大変な働きがあります。南無阿弥陀仏を成就されるための阿弥陀仏のご苦労を「五劫思惟」とか「兆載永劫の行」といいます。その大変なご苦労によって完成した南無阿弥陀仏は、元々私たちに与えるためのものです。

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり(正像末和讃)

阿弥陀如来がなぜ本願を作られたのかという御心を考えて見ると、苦しみ悩むものを見捨てられず、与える一つで助けるために南無阿弥陀仏を完成されたのだといわれています。

「苦悩の有情」とは、未だ阿弥陀仏の本願に救われていないすべての人のことです。すべての人に与えるという南無阿弥陀仏であっても、受け取った本人からすれば、その嬉しさ、浄土往生できる正定聚の位に入ったというのはその人一人のものです。
隣の人が救われたと喜んでいても、私自身が救われない限りは、私の救いにはならないのです。

歎異抄には親鸞聖人のお言葉としてこのように書かれています。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり(歎異鈔)

阿弥陀仏が五劫思惟された願をよくよく案じてみれば、ただ私親鸞一人を助けるための本願でした。
普通に考えても、縁もゆかりもない人を助けることはありません。阿弥陀如来といっても会ったこともないのに、なぜ南無阿弥陀仏を与えて下されるのだろうかと思います。
私の姿からいえば、南無阿弥陀仏を与えられる価値や、善根は一つもありません。なにか南無阿弥陀仏をいただけるような縁手がかりがあるからいただけるのではありません。何も助ける縁手がかりが無いものに、与えるために阿弥陀仏が作られたのが南無阿弥陀仏です。

与える南無阿弥陀仏に対して、受け取る方が受け取らない心が雑行雑修自力の心なのです。

「迷の衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまいらせて、諸の雑行を棄てて一向一心に弥陀をたのまん衆生を、たすけずんばわれ正覚とらじ」と誓いたまいて、南無阿弥陀仏となりまします。(御文章5帖目8通・五劫思惟)

「一念にもろもろの雑行を棄てて、一心一向に阿弥陀仏をたのむものをたすけなければ仏のさとりをとらない」と本願を建てられて南無阿弥陀仏を成就されています。
本当にいただけるのだろうかと、南無阿弥陀仏を疑うこころは、自力の心です。こんな自分は助かる縁がないのではないかと思われても、助かる縁がないというのは阿弥陀仏が願を建てられたときから見抜いておられることなのです。

南無阿弥陀仏を頂こうという心は、阿弥陀仏によっておこされた聞法心です。邪魔をしているのは雑行雑修自力の心です。本当に届いてくれるのだろうかという心は捨てねばならないものですから。雑行をすてて、一心に阿弥陀仏をたのみ、南無阿弥陀仏を頂く身になってください。